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2010/04/11 (Sun) 缶ジュースのはなし ? アダルトチルドレン ?

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今しか知らない友達などはこういうと驚くのだが、私は、全く自己主張できない人間だった。
以下は、何一つ大げさに書いてはいない。ある人には冗談に思われるかもしれないが、過去の私が死にたいくらい悩んでいた「生きづらさ」のエピソードの一つだ。


私は、究極のアダルトチルドレンだった。自分のことよりも他人のことが優先。人の役に立つことばかり考えて、自分のことはどうでも良い。人から嫌われたくないとか、嫌われてもいいから自己主張しようかとか、そんな選択肢も頭になかった。生きるということは、役割を演じることだった。家庭でも、学校でも、職場でも、友達関係でも、その場の皆が居心地が良いように立ち回ること。それが私にとって人の中で生きることだった。

結果、どこでも褒められる子供だったように思う。
中学時代や高校時代、一時期わたしの性格はガラリと変わった時期があったが、それを除いては従順で聞き分けが良く、大人しくているのかいないのか分からない存在だった。
それでも、ここぞという時には重宝される子供だった。大人にとって一番都合が良かった子供のように思う。相手が何を自分に望んでいるのか本能的に嗅ぎ分けて控えめに動いた。大人の自尊心を傷つけぬように、あくまでも自分が進んでそうしたいかのように装うことも忘れなかった。


うまくいっていたのはある時期までで、成人して社会に出ると取り返しのつかない失敗が積み重なっていった。

本来は、それは失敗とは呼ばず単なる人とのすれ違いと呼ぶべきだったし、取り返しがつかないのは自分のことを棚に上げて他人のことだけに躍起になっていたからだが、それ以外の生き方を知らなかった私は、社会で役に立たない自分の存在を嫌悪するようになった。


人からの要求をかなえようと思ったら、無尽蔵のエネルギーが要る。
あっちを叶えればこっちが叶わず、しかし私は誰も彼もの役に立ちたい。精一杯立ち回るのだが、どうしても片手落ちになる。何故なら、私は私以外の何者でもないし、何もかも理解できる神様でもないし、身は一つだし、心は傷つきやすいから。
それでも他の生き方を思いつかなかった私は、他人に尽くし続け、自分を削り続け、犠牲にこそ自分が存在しているかのように感じ、そこに生き甲斐を見出すことから脱しきれず生きた。
20年ちょっとで私のエネルギーはすっからかんになった。

多くのアダルトチルドレンがそうであるように、破綻の前後が問題なのではない。もっと根深く、もっと長い年月をかけて真綿で首を絞めるように苦しみが致命傷になっていく。20年ちょっとも、よくもったものだと思う。振り返るからこそ言えることだが、人間は意外にタフだ。タフだから残酷だ。取り返しがつかないくらい袋小路になるまで破綻することができない。


破綻してからの私は、自分の存在を恥じるようになった。
自分から出る生体反応のようなものまで耐えられなくなった。
ただひたすらに、自分のようなクズが生きていることが恥ずかしかった。


自然、私は生きている人間が示すような反応を示さないようになった。
家を一歩出たら、生理的活動を止めるようになった。

喉など乾かないふり、腹など減らないふり、喜怒哀楽を持っていないふり、疲れないふりをした。
他人から気遣われたくなかった。自分などのために他人が親切心や気遣いをしてくれるのが心苦しくて仕方なかったのだ。周囲の人たちは全て輝いて見えた。自分は、風に吹かれて飛んでいくゴミが入ったコンビニの袋と同等だった。そんな私が、周囲の人たちに人間扱いしてもらうのは苦しかった。


誰かと出かけても排泄もしない顔をしていた。
職場でトイレに行くことはなかった。あの当時、私はどうしていたのだろうか。不思議だ。怪我をしても、全く痛まない顔で仕事をした。解離で道路に吹っ飛んで顔の皮膚を半分火傷して、溶けたアスファルトをこびりつかせて、普通の顔をして職場に戻って仕事したこともあった。
死に掛けたときがあったのだが、その時はさすがに真っ青で大量の冷たい汗をかいて歩けなくなった私を見て社長が病院に行けと言われたので、痛くないふりは無理だった。しかし、麻酔入りの点滴を受けた直後に職場に戻り、また仕事の続きをした。

私は、人のエネルギーを浪費させないために、生きている気配を殺そうと強迫的に専念した。


しかし、日常的に避けられない善意があった。
職場で、何気なく奢られる缶ジュース一本だ。


社長と2人きりで仕事をすることが多かった。社長は、朝の仕事を大体片付けると必ず自動販売機で一休みのための缶ジュースを買って来る。その度に私の分も買って来る。最初、私は頑なに拒否した。いいですすみませんいいんですと首を横に振った。そのうち、社長が何故受け取らないのかと訊くようになったから、喉など渇きませんと言った。社長は、自分だけ飲むのは嫌だし、受け取ってくれると嬉しいのだけどと言った。

こういう言い方をされると、私に断る理由はなくなった。彼が望むのは、どうやら私が受け取ることらしい。美味しく飲むことらしい。ならば、私はそれに応えなくてはならない。


応じるようになったものの、次の苦しみが待っていた。
販売機の前で、何が好きかと訊かれるようになったのだ。
生きていることすらひた隠しにしたいのに、どの飲み物を美味しいと感じるかと訊かれたのだ。私は混乱した。初日、どう答えたのか分からない。

その時間が毎朝苦痛になり、社長が缶ジュースを買いに立ち上がる瞬間が怖くて、仕事中も手が震えるようになった。脂汗が出て、吐き気がして、飲むどころではなかった。

110円の缶ジュースが重くて重くてたまらなかった。私は密かに月額私のジュース代と社長のジュース代を計算し、店の売り上げを計算し、バイトの人数と時給を計算した。自分が存在していることで、とんでもない罪を働いている気がした。罪悪感と申し訳なさから、人の10倍必死で働いた。
110円の缶ジュースに報いるためには、働いても働いても足りなかった。


カウンセリングに通い始めたのは、この頃だったと思う。

朝の缶ジュースは、自分で選べるようになった。
それでも、基準はいつも他人だった。

私は、どれが好きなのか分からなかった。相変わらず自分が生きていることを、全世界に向けて土下座して生きていた。だから、社長は私にどれを飲んで欲しいのだろうかとばかり考えて、社長と同じものを頼むようになった。


相手がそれを望んで私に奢るのではないことも分かっている。
しかし、相手がどう思っていようが関係ない。不安な人間、自分の存在を赦せない人間は、盲目なのだ。自分と不安しか見えない。怖いのだ。嫌われるのが怖い。110円奢るほどの相手じゃなかったと一瞬でも思われたくないから、必死で働いた。


治療によって改善されてきた私は、社長から奢られるジュースを苦痛のままでも受けて飲めるようになった。社長は嬉しそうであった。

私がいくら内心で土下座して生きていようと、気配を殺して生きていようと、私が存在し続けている事実はそよとも動かない。それは耐え難い現実だったが、現実は受け入れるほかない。抵抗することを私は諦めた。

そのうち私は、奢ってもらえるのを心待ちにするようになった。そうして、1,2年経った頃、ズラリと並んで私を圧迫していた自動販売機の缶ジュースは、私に選らばれるために存在するようになった。私は、これが美味しいとか、これは美味しくなかったと社長と話せるようにまでなった。


他人のために生きることをやめるのは、世界を引っくり返して自分も死ぬような覚悟を要した。
何度も何度も、他人のために生きられるのか?と、自問が続いた。現実は、生きられなかった。私は、他人のために役に立たねばと生きてきたが、自分を削って与え続けてきた結果、すっからかんになってしまった。
真に役に立っているかすら分からなかった。自分のことすら面倒が見れない自分が、他人の役に立っているのか。本当は、役に立っていると自分が自分のために感じていたいだけで、私がやっていることは最終的には他人を侮っていることなのだと気づいた。
私が、私のために犠牲を払われるのを嫌うように、他人もまた自分のために私が犠牲になるのは受け入れがたい重さであるはずなのだ。親切や思いやりは、犠牲という形で差し出しても、相手の心を損ねてしまうのだ。



当時を懐かしいと思えるくらい年月経って、今は「奢るよ」と言ってくれると単純に嬉しい。

私はさらに、ある時から社交辞令を一切辞めた。
またACに戻らないよう自分を追い込む意味でも、私に社交辞令は通じないよと周囲に喧伝してまわった。この手続きは、やはりまた葛藤とストレスだった。それでも敢行した。
結果、社交辞令の可能性が高い「奢るよ」にも、漏れなく乗っかり、本音で楽しめるようになった。


現在の私は、「厚かましい」とよく言われる。厚かましい分、好意を持った相手には厚かましく奢ることも贈り物をすることも何をするにも躊躇しなくなった。貰ったり、あげたりの相互関係に苦痛を感じなくなった。


昔と何が変わったのだろう。
一つ確かにいえることは、私はもう何もできない私ではないということだ。何でもできるわけではないし、自信満々なわけでもない。だけど、とりあえず何かはできそうだと感じて生きている。

今一方的に貰ったとしても、私は相手に何か違う形で返せるかもしれないことを知っている。自分の力をある程度信じられるようになって初めて、110円のジュースは110円分以上でも以下でもない純粋な好意に過ぎないことを知った。


乾いた喉を誤魔化して断って、断った後も本当は受け取っておいた方がよかったんじゃないかと煩悶したり、受け取ったらその10倍も働いたり、そんなことしなくていいのだ。

心から「ありがとうございます」と受け取れる。そして、受け取ったジュースを美味しく飲める。美味しいですねと心から相槌が打てる。その幸福感は、言葉に表すことができない。些細なことなのに、世界が美しく見える。空の広がりを感じる。自由とは、こんなことかもしれないとすら思う。


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信条・・・? 

他人のために動くことこそ最大の善の行為だと信じて疑わず
しかもそのことに万能であるかのような思いを抱き
『不可能なはずはない、できないとしたらそれは私の努力が足りないからだ、自分が至らないからだ。。。』

長年染み付いてしまったこの【信条】は、
生きていく上で悩んで自分で掴んだものだとしたらきっと形は違っていたと思うんです。。。
きちんと自分を認めながら、自分のできる力を把握した上で動くことができたはずです。

「自分以外の何者でもない」んですよね。

クズだ、生まれてごめんなさい、私のせいであなたを不幸にしてしまっている。。。

もう、こんな気持ちにならなくても済むのなら
どんなにラクになれるだろう、と。

実は与えられた【信条】を自分の頭で導き出したものではなかったことが
自分を縛っていたんだ、とようやく気付き始めたところです。
まだまだ消化不良で混乱も多いですけれど。。。

2010/04/12 03:19 | プラチナママ [ 編集 ]


自分と言う存在 

美鳥さん、こんにちは。
缶ジュースのお話。。。とてもよく解りました。私も『自分』と言うお荷物のような存在と、周りの視線を気にするあまり、生きる(=演じる)ことに疲れた、あの懐かしい疲労感を思い出しました。演じる期間が長すぎ、本当の自分を生きるのが怖かった。いったん死んで生き直すくらいの決意が要った。そんな思いが巡りました。
今はその束縛から解かれ、自由を実感しながら生きている。美鳥さんも困難はまだまだあるだろうけど、束縛(思いの囚われ)から抜け出て「生きている」、素晴らしいと思います。

2010/04/12 09:54 | エコペン [ 編集 ]


男の私も講演会に行っていいのですか? 

自分にはリストカットとか自殺未遂とか動物虐待の経験がなく、現在仕事を2つやっているということからも他の人と比べると心の傷の程度は浅いんじゃないかと思うんですが、講演会興味があります。フライヤーからすると女性限定の催しでしょうか?

1年ちょっと前は引きこもってて“生き納め(自殺とは呼びたくない)”することを考えていました。

自分のブログのURLを添えておきます。参加資格あるでしょうか。

2010/04/14 11:20 | singerunloved [ 編集 ]


さっそくのお応えありがとうございます。 

5月5日は大丈夫な筈だから行けるようにしたいと思います。

でもまだ決定はしないでおきます。

定員て何人なんでしょうか? そろそろいっぱいになるんでしょうか?

ばかな質問ですみません:
メールフォームのメールの欄に自分のアドレスを入力しても他の閲覧者に見られてしまうなんてことはないですよね?

2010/04/14 15:02 | singerunloved [ 編集 ]


>>プラチナママさんへ 

プラチナママさん、こんばんは。
最近、少し睡眠が取れてるのでしょうか。ツイッターで拝見して、嬉しいです。しかし私は寝すぎてるので、私の睡眠をまじ分けてあげたい・・・・。


> 他人のために動くことこそ最大の善の行為だと信じて疑わず
> しかもそのことに万能であるかのような思いを抱き
> 『不可能なはずはない、できないとしたらそれは私の努力が足りないからだ、自分が至らないからだ。。。』

ある種の根性論ですよね。
人間、できることとできないことがあって、案外できることって殆どないのが現実ではないかと思うのですが、それを言っちゃうと身もフタもないと思われる方がいて、それもまた「そんなこと言ったら努力する人間がいなくなる」という根性論が元となっているのだと思うのです。

本当は逆で、自分がやっていることで自然にやれていることが「やれること」。
やらなければと思って必死の努力をしなければやれないことは「やれないこと」。
往生際の見極めみたいなものが必要なのではないかと、生きるにつれ思うようになりました。
根性論で生きていくのは、あまりにきつすぎます。
結構周囲は、やれる人に負担をまわしてきますし。共依存や、何かへの過度な依存なしには成しえないのが根性論の辻褄あわせだと思います。


> 長年染み付いてしまったこの【信条】は、
> 生きていく上で悩んで自分で掴んだものだとしたらきっと形は違っていたと思うんです。。。
> きちんと自分を認めながら、自分のできる力を把握した上で動くことができたはずです。
>
> 「自分以外の何者でもない」んですよね。

そうですね。自分で掴んだものかどうか、色々な選択肢の中から自分で選び取ったものかは大きいと思います。私は、自分で掴まず、自分で選択するという発想もなく、与えられた中で疑いを持たず生きていたので破綻したのだと思います。
自分以外の場所、自分以外の力は、結局他人のものなんですよね。


> クズだ、生まれてごめんなさい、私のせいであなたを不幸にしてしまっている。。。
>
> もう、こんな気持ちにならなくても済むのなら
> どんなにラクになれるだろう、と。

同じ心理で長年生きていたので、どれくらい苦しいか想像できる気がします。
自分について「クズだ」「生まれるべきじゃなかった」「自分のせいで誰かを不幸にしてしまう」という理屈が通るなら、逆にクズで生まれてくるべきじゃなくて、その人のせいで自分が不幸になってしまうという現実も厳しいかな存在することになると思うのです。
なので、私は自己嫌悪は他人憎悪と表裏一体でした。至らないかもしれないけれど、こんなに頑張ってる私をクズにしてしまう周囲の誰かは冷たい、酷い、自分とは違う、自分より楽そうで羨ましい、そんな妬みが強かったですね。
こうして振り返ると懐かしいです。


> 実は与えられた【信条】を自分の頭で導き出したものではなかったことが
> 自分を縛っていたんだ、とようやく気付き始めたところです。
> まだまだ消化不良で混乱も多いですけれど。。。

気づくことって、実はものすごい苦しみの蓄積の果てにやって来る、レアなレアな賜物だと思います。一生気づかない人もいますよね。

気づいてからがまた大変で、でも私は、気づかずにグルグル同じ失敗をして苦しい毎日を何とか這いずって仕方なく生きていたときより、気づいた後に混乱しながらやっぱり這いずって生きてた方がまだ自分で生きようとしている誇りみたいなのを感じます。

私が好きな言葉で、

「混乱は誕生の陣痛である」

という一文があったのを思い出しました。

2010/04/17 23:34 | 美鳥 [ 編集 ]


>>エコペンさんへ 

エコペンさん こんばんは。
メールフォームの件で、大変お手数かけました。
ジブラルタル海峡のごとく、私の知りえない数のメールが霧散した気がします。ツイッター見てご連絡、あらためてありがとうございました。

缶ジュースの話は、いつか書いてみたいと思いつつ、周囲に話すと共感どころか驚かれることが多かったので今まで後回しにしてきました。
ACは、少なからずこういう種類の重圧を感じて生きているものですね。
理解して頂けて幸いです。

演じていると、まったく自分の生き方どころか些細な「何がすきか」まで分からなくなりますね。そこからの生き直しは、本当に決意要りますね。これまでの自分を全部捨てなくてはならなくて、まさに裸一貫からの再スタートというか、心は丸裸、丸腰でラスボス倒しに行くみたいな気分ですよね。

自由って本当に有難いもの、清涼な空気のように身も心も浄化されるようです。
エコペンさんも、数々勉強され、試行錯誤されて自由を獲得して来られたのですね。
私は、丸腰から多少武器を仕入れ、レベルはまだ低いけれど、とりあえず何回目かのラスボス倒しに繰り出しているところです。


2010/04/17 23:54 | 美鳥 [ 編集 ]


>>singerunloved さんへ 

singerunloved さん こんばんは。
メールをお送りしましたので、是非読んでお返事下さい。


> 自分にはリストカットとか自殺未遂とか動物虐待の経験がなく、現在仕事を2つやっているということからも他の人と比べると心の傷の程度は浅いんじゃないかと思うんですが、講演会興味があります。

経験の種類は、私は無関係だと思っています。
リストカット、自殺は主に抑圧を自分への罰に転嫁する行為。
動物虐待や、その他他者への過度な攻撃もまた、抑圧の転嫁だと捉えています。
そしてお仕事をされてらっしゃっても、いわゆるニートと呼ばれる方でも、入院されてらっしゃる方でも、すべて外側から見た単なる形、その人を覆っている殻に過ぎないと思っています。

誰かと比べての苦しみではなく、社会的肩書きで相対的に測る苦しみでもなく、あくまで自分が自分の苦しみだけを見つめて「生きづらい」と感じられるのであれば、ぜひご参加ください。


>フライヤーからすると女性限定の催しでしょうか?

いえいえ。どなたでもご参加いただけます。
既に男性からのお申し込みも複数お受けしています。


> 1年ちょっと前は引きこもってて“生き納め(自殺とは呼びたくない)”することを考えていました。
> 自分のブログのURLを添えておきます。参加資格あるでしょうか。

参加資格は、どなたにもあります。
ただ、講演会の性質上、まず参加される方々のプライバシーを侵害する行為をしないこと、宗教勧誘や個人的な目的で講演会の場を利用しないことは参加者の皆様に講演会冒頭で直接お願いする予定です。

2010/04/18 00:03 | 美鳥 [ 編集 ]


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美鳥(みとり)

Author:美鳥(みとり)
被虐待サバイバー。解離性同一性障害、うつ病、対人恐怖症ほか色々闘病中。境界性パーソナリティ障害寛解しました。毎日の光と影を綴ります。生育歴・来歴・病歴・活動はこちらをご覧下さい⇒<はじめに Profile>

講演活動・ユーストリーム放送しています。
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診断名の有無に関わらず、生き辛さを抱える方々と温かい繋がりを目指しています。ご感想ご意見など、お気軽にどうぞ。お待ちしています。

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