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2008/11/30 (Sun) 精神の血族

20081130.jpg
叔父が先日、亡くなった。

私の母の兄だった。
多くの妻と愛人と子供をもうけ、子煩悩で親戚内で人徳篤く信頼されていたが、脳梗塞と脳溢血の末にほぼ全麻痺になってからは、仕事も失い、身体の自由も失い、言語も失い、記憶も曖昧だが、残酷なことに孤独や絶望を感じる器官は生かされていた。静かだが壮絶な孤独のうちに亡くなった。

叔父の妻は、自身の夫の危篤状態においても、実に事務的で、何の感情も浮かばないようだった。ただただ煩わしかったようだ。恐らく、夫の死よりも彼女は株価が気になっていたに違いない。断言できる。
叔父が倒れたときに、延命措置を阻んだ女だ。彼女こそが最も叔父の死を望んでいただろう。
叔父が一代で築き上げた信頼厚い会社は全て女が乗っ取った。彼女は、叔父の妻ではあったが復讐に燃えていた。自分に隠れてあちこちに妾を作り、子供を作り、最終的には愛人と同居しようとしていた叔父の不実に怒りを燃やしていた。叔父が倒れた時には、動けなくなった叔父を嘲笑った。しかし、彼女もまた、本妻から彼を奪った元愛人だ。

親戚の者達は、叔父の行いを知り、女の無情も知り、どう感想を述べても真実には届かない、人間の冥い冥い底なしの沼を覗き込むようで、言葉を失し続けた。
叔父の人生の詳細に対して、何と感想を述べていいのか分からない。


私にとって、叔父の最後の妻は、小賢しい唾棄すべき悪女で、病的な嘘吐きで他人を侮り、外側ばかりを装うことに必死で滑稽なほどに低い人間性を常に露呈していた。自己中心的で醜い虚栄心を、そのまま人型に嵌め込んだような女だった。

よく胸糞の悪くなる出来の悪い嘘ばかり吐いては、私を凶暴な気分にさせた。私はこの女が嫌いで、彼女の言うことは一切信じず、全て先手を打ち、何か実質的被害を被った場合には必ずきっちり返すつもりでいた。気が強い私としては、これまでの慇懃無礼で情も品性もない女に、彼女が最も恐れる「化けの皮を剥がされる」体験をさせてやろうと考えていた。
ついに機会は訪れなかったが、こういう手加減不要な相手というのは存在するのだなと、いつも呆れ半分だったものだ。

悪女に耐性もなく、自身の感じ方に常に自信がない母は、この女の思うがままだった。
女は、これまで嘘八百のお涙頂戴の話をでっちあげては母の同情心を買い、金だけを無心したり、わけの分からない怪しい企みにも何度も巻き込もうとした。
小賢しかった。
しかし、情に弱く「善人」の母は、この女に精神的に対抗する術を持たなかった。常に嘘か真か判断のつかぬ理の通らぬ言葉に振り回され、母は、猜疑心だけでくたくたに疲れていた。
私は、母の傍らで自身の信条を更に固めた。
悪意に対抗するために、更なる悪意と上質な知恵を身に着けよう、と。
他にも、綺麗ごとばかりではない男女の仲や、妾腹に生まれる不遇の子供や、愛と憎しみの相関関係など、叔父の人生を通して見せてもらったものは、数限りない。


叔父は、十代の頃から、メロンの屋台売りから始め、一時は人の道に外れ、しかしまた再起し会社を興した。女癖が悪いことだけが欠点だった。女に恨まれてやむなしの人生だったが、情が厚く、数え切れない人間が彼の世話になり、彼の人間性に心打たれ、彼を慕った。動けなくなってからの叔父は、その身体の内に閉じこめられ、言葉を奪われ、どんなにか窮屈だったろうと想像する。
来る日も来る日も続く、個室の高級老人ホームでの毎日。妻は罵るばかりで、取引先の同情を買えるという理由で彼女は夫が死ぬ前から「未亡人で子供二人を一生懸命育てている」と周囲に言ってまわっていた。叔父は、死ぬ前から既に殺されていたも同然だった。

妹である母をはじめ親戚の誰にも叔父の入院先は知らされることはなく、叔父はリハビリを受ける機会も奪われ、寝たきりで放置された。親戚が彼と会えた回数は、数えるほどしかなく、彼にとって最愛の妾の子の身をひたすらに案じ、幸福を願っていたようだが、会うことは叶わなかった。たった1人の妹である私の母や叔父を心から慕っている親戚は、通夜のみ出席が許され、葬儀には誰一人参列できなかった。だから、叔父が大事に大事にしてきた妹私の母は、お骨を拾うこともできなかった。

叔父が最後に倒れたのは、皮肉にも妻を捨て、愛人とその子供と共に暮らそうと決意した直後のことだった。彼の金で高級マンションに住み子供と暮らしていた愛人は、住処も生活のあても失い、その子供は永久に父親を失った。
病床での7年半は、彼にとって生き地獄だっただろう。死ぬまで、生かされているという残酷さと向き合い続けた。言語野に障害を負った叔父が、病床で何を思い、何を考えたのかは叔父当人しか知らない。


肝臓癌が発見されたが、医者が手術と治療を何度勧めても妻は断った。誰の目にも意図は明らかだった。

彼は、最後の妻を選び損ねた。
しかし、彼は、誰を選んでも満足できなかっただろうと、私は思う。
叔父は、子供の頃離れて暮らさねばならなかった母親の愛情を、出会う女達に求めていた。私はそう確信している。次は、次こそは、と期待しても期待しても、それは決して彼の母親ではない。派手な女性遍歴は、ついに彼が一度も真には満たされることのなかった証のように見えて仕方ない。
私の家系図を鑑みると、親の愛情に恵まれない境遇の人間が、正に樹の枝のように連なっている。叔父の母親は、私の祖母であり、その娘が母であり、そのまた娘がこの私だ。連なりは、樹となり鎖となり、私たち精神の血族を繋げている。


叔父は、昼間に亡くなった。苦しむことなく、静かな死だったという。前日まで意識があり、妹である私の母と言葉を交わしたのが最後だった。
死期が近いらしいと母から電話で聞いてから数十分後、たった今亡くなったと母からのメールで知った。
大阪は、よく晴れていて清々しかった。風が強く、水色の空の中、白い雲がどんどんと形を変えた。
涙は、出なかった。


叔父は、自身の生に死という完結を迎えた。
その死によって、妹である私の母を惑乱させていた悪女との縁がついに切れた。
叔父が叔父自身の人生の重みも価値も責任も何もかも、その身一つに背負って人生を閉じた。
命とは、そういうふうにできている。実によくできている。


生れ落ちることも困難だが、死ぬまでも何と困難な道か。
自殺が叶うだけの身体能力を残されていたのなら、彼は自殺しただろうか。それとも、やはり生を全うしただろうか。

ただひたすらに、人間の生は重く、また死も平等に重い。
どんな生もどんな死も、私は今を生きている自身の頭上に戴くような気持ちになる。

叔父の生と死に思いを巡らせ、私は手を合わせる。


お疲れさま。
それ以上の相応しい言葉が思いつかない。



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◇強く儚い

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2008/09/26 (Fri) 青空の種

実家の庭には、毎年夏には青い朝顔が咲く。
この朝顔の種は、何年も前に亡くなった母の知人がくれたものだった。
知人は、白血病で亡くなった。その年の夏も、真っ青な朝顔が毎朝花開いた。
以来、毎年種を大事に取って、毎年、母が植えていた。


知人の三回忌の年、この朝顔の写真を撮って母が知人の母親に手紙を書いた。娘さんから頂いた朝顔が、今も毎年うちの庭で咲いていますと、綴って送った。丁寧な返事が来た。

美しさや悲しみや、在りし日の楽しかったことや、なくしたものを内包して、季節ごとに花開く。
母は、朝顔を見る度に、綺麗ねと顔を綻ばせたが、その後決まって静かに眺めていた。

ある年母は、もう朝顔は植えないと言った。
家族の誰も、気持ちを察し、母の言うまま、その年は種を取らなかった。夏の庭を彩っていた青い朝顔に、私も黙って別れを告げ、蔓を取ってまとめて捨てた。

2008083005.jpg


それから2,3年が経った。
冬のある日、父が偶然、植木の枝の間に一粒の種を見つけた。
数年前に刈り取った朝顔の蔓が、僅かだけ引っかかっていた。あの朝顔の種だった。

種は、枝の上で、何度もの春と夏と秋と冬を越していた。雨に降られ、風に吹かれ、太陽に照り付けられ、雪が覆いかぶさった日も、静かに枝の上に佇んでいたらしかった。


2008083007.jpg

種が死ぬことは、あるのだろうか。
母は、根負けしたようにその年の夏、庭の土に再び種を埋めた。
数年を耐えてきたたった一粒の孤独な種は、まるで去年も一昨年も朝顔であったかのように、変わらず蔓と葉を伸ばし、たくさんの真っ青な花を咲かせた。

以来、毎年庭に真っ青な朝顔が途絶えることなく咲いている。

この朝顔を眺める度に、生きること死ぬことはあまりに曖昧で、よく分からなくなる。
この種を分けてくれた母の知人は、美しく心穏やかで背筋が伸びた謙虚な人だったと聞く。
血液の癌、白血病で死ぬことは苦しいことだろう。けれど、きっと苦しいだけではなかっただろう。

私の祖母は、肺癌で亡くなる直前まで笑っていた。
癌で苦しみ絶望する日もあれば、癌を冗談の種にして家族を笑わせ一緒に笑った日もあった。
母の知人と祖母の死は、どこか重なって見える。
苦しみは過ぎるとその人の性格まで変えてしまう。けれど、変わらないものも最後には残る。

2008083002.jpg


命は、よく分からない。
運命に無力であるように見えて、力強く過去と今を結ぶ。
途切れたようでいて、次の日の朝、ふいに大輪の花を咲かせる。

いわし雲を見ていたら、真夏の真っ青な空が恋しくなった。
朝顔の色だ。

2008003001.jpg


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◇生者の特権
◇癌と生き死ぬこと

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2008/04/05 (Sat) 癌と生き死ぬこと

今日は、祖母の命日だ。
亡くなったのは、何年前だろう。
年の感覚がない私には、思い出せない。

今朝は、大阪はとてもよく晴れていて、気持ちが良かった。
温かくて、春っぽいラベンダー色のストールだけ巻いて、
赤い自転車で、病院へ出かけた。
途中、桜が満開だった。
もくれんの白い花も咲いていた。
パンジーも咲いていた。
それから、名前の分からない色とりどりの花が、
街のそこかしこに咲いて、春の柔らかい風に揺れていた。

祖母が亡くなったのも、こんな日だった。
末期癌の祖母を自宅で、家族で看病し、
ホスピスケアの専門の先生に往診して頂き、
1週間ほど眠りっぱなしで、最後は眠るように息を引き取った。

祖母の死期は、医者から知らされた。
一枚の紙を渡された。
そこには、人が必ず辿るという死への段階が細かく詳細に書いてあった。
呼吸が、階段を下りるように変化していくことだとか、
体温が数分おきに35度台?40度程までの間を上下すること、
体に青紫の痣が出始めること、筋力が格段に落ちること、
カテーテルでつけられた導尿器に尿がたまらなくなること、
顎が開き始めること、様々なことが具体的に書かれてあり、
死までの1週間の間に、
この全ての症状が書かれている通りの順に起こることを聞いた。


病院では、必ず死の間際には、蘇生処置が執られる。
それは、医者としての使命、責任とされるから、
最後まで患者の生命維持に尽力せねばならない。

祖母の場合、自身で選んだ安楽死のようなものだ。
それまでは、本当に長く長く、苦しい死への恐怖、
それ以上に、生きる気力を奪い、精神力まで破壊する痛みとの戦いだった。
肺癌だったために、突然呼吸が出来なくなり、
とっさに祖母が自殺しようとしたこともあった。
運よく、酸素ボンベが到着したから、助かった。

祖母は、死にたがっていた。
往診に訪れた医師に、「来週までもは待てない」と叫ぶように言った。
後ろ向きな死、というよりも、自身の死期を知っていた。
それ以上に、動けなくなること、自分の好きなことが何一つ出来ないこと、
ただベッドの上に横たわり、数時間置きにモルヒネ等の痛み止めを服用し続け、
そのために意識も朦朧としていた。
生きている意味があるのか、とは、
祖母自身だけでなく、私も傍にいる家族も、皆が胸に抱いた疑問だった。
人は何のために生きるのか?という問いは、そこら中に溢れているが、
人は何のために死ぬのか?という問いは、見当たらない。


「来週までも待てない!」と言った祖母の声を、私は隣室で聞いていた。
ショックだった。
できるだけ、生きてほしいと家族として、当然のように思っていた。
けれど、こんなに苦しい毎日がいつまで続くのだろうかとも思っていた。
祖母は気丈な人で、決して家族には泣き言を言わなかったが、
そのときだけは、医者に食ってかかった。
一週間の処方箋を決めるときに、もう待てない、と言ったのだ。
うんざりだ、と言ったのだった。
一年間に何人も末期癌患者を看取ってきた医師に、迷いはなかった。
祖母に、言った。
「大丈夫ですよ。安心してください。必ずお迎えが来ますから。大丈夫ですよ」
と、言った。
私にとって、衝撃的な言葉だった。
確実に死を迎える祖母と、明日も明後日も生きているであろう私達家族の間に、
決定的な溝があることを自覚した瞬間だった。
祖母にとって、死はもはや恐怖ではなく、救い、希望だったのだ。
家族を前にしても、医師も看護婦も、祖母の本心に寄り添うことを躊躇わなかった。
「必ず死ねますから安心してください」
とは、不謹慎な言葉でも何でもなかった。
そのときの祖母にとって、最も必要な励ましだった。

そんな言葉を、祖母にかけてあげたかった。
できるならば、私が。
私は、祖母が死んだときに自分が後悔したくない、
生きている間に精一杯孝行したいという気持ちで、
指すら動かすのがままならない祖母に発破をかけて、
合作で、モチーフを編み続け、祖母が生涯愛した家のリビングのソファカバーを、
作り上げた。
裁判の書類を書きながら、ソファで眠り母と交代で24時間看護し、
夜は指が痺れても、動かなくなっても、ひたすらモチーフを編んだ。
死に物狂いだった。
祖母の限られた残り時間が、私にとっての残り時間でもあった。
何百枚、編んだだろう。
デザインも、祖母と相談した。
起きているのも苦痛だっただろう。
でも、一緒に決めなければ私は納得できなかった。
私の作品にしたくなかった。
最初から最後まで、私と祖母の作品にしたかった。

無機質なベッドの白いパイプ、取り付けられた導尿器の屈辱、
寝返りを打つにも数十分を要する痛みへの憎悪、
数時間おきに、回復するでもない薬を延々飲ませる空虚、
抗っても抗っても、確実に迫ってくる死という見たこともない悪魔の姿。

その中で一際、私達が編み続けるモチーフの色とりどりの毛糸が
鮮やかに私の記憶に灼きついている。
水仕事で荒れて固くなった祖母の指、
毛糸で擦れて血いが滲み、バンドエイドを巻いていた指。
黙々と編み続けた指。
私が裁判でいない日も、編み続けていると電話で話した祖母の声。
全て、鮮やかな毛糸の色彩と共に、灼きついている。

歩くこともままならなくなった祖母を無理やり起こし、
リビングに連れて行き、完成したソファカバーを敷いて、
綺麗にセッティングしたテーブルを置き、そこに祖母を座らせた。
祖母は、ずっとずっと眺めていた。
生涯、貫いた九州弁で一言「夢んごたる・・」と、繰り返していた。
祖母は、生きている間に完成させることは不可能だと思っていて、
私に後を引き継がせようとして、私に編み方を教えた。
私は、冗談じゃないと思った。
祖母が死んだ後で、祖母が編んだモチーフの続きを編み、
祖母と相談するでもなく、たった一人でそれを完成させ、
一人で眺めなければならないこと、
そんな寂しさを、人生の中で味わいたくなかった。
完成した作品を、言葉を失ったかのように眺め続ける祖母の姿を見て、
私は祖母の死を完全に受け入れた。
祖母は、死ぬのだ。

祖母の限られた余命数日と同時に、
私の人生の一部を、見事完結することができた。
痛み止めも効かなくなった体で、尚も生きてくれている祖母に感謝した。


息を引き取る数日前には、一度だけ目を開いた。
会話ができた。
祖母は、まるで子供のような無邪気で明るい表情をしていた。
氷を、美味しい!美味しい!と、
砂漠で水を飲んだ旅人のような歓喜の声を上げて
幾つも幾つも食べた。

再び眠りについた祖母の横で、葬儀のための喪服の準備をした。

息を引き取った瞬間に、私は立ち会った。
階段を下りるように何度も呼吸のペースが落ちて、
ゆっくり息が止まった。

私たちは、笑った。
完璧な死だと確信した。
祖母が私に癌が見つかるはるか昔、
もし自分が死んだときは、葬儀でみっともなくないように、
固まるまで顎を閉じて押さえているように、
と遺言していた。
だから、そのとおりに私は祖母の顎を押さえていた。
涙は、出なかった。
晴れやかな気分だった。

祖母は、命ある限り癌と闘い、癌と共に生き、
治療法から死に方まで、全て自身の思い通りに自分で指示し、
望みどおりに亡くなった。

息を引き取ったのを確認してから、医師に電話した。
すぐに看護士が来て、医師が来て、死亡診断書を書いた。
死因は「肺癌」と書かれたが、肺に最後まで空気は通っていて、
何が最終的な死因なのか、今もついに分からない。
人の死とは、もっと正体の分からない何か神秘的なものに導かれて、
決まった段階を通り、体が死への準備を全て終えた後で、
最後の幕引きのように、ゆっくりと迎えるのだと知った。


看護士と一緒に、祖母の身支度をした。
生前好きな服を着せるように言われたから、
祖母のタンスの中から、下着から全て、娘である母と、
私達三人の孫たちで決めて、着せた。
下着は、上質な真っ赤なレースの下着を着せた。
80も過ぎて、こんなものを持ってたんだ、と皆で笑った。
30代の看護士さんが、これ、同じものを私も持ってる、と言って、
看護士さんとも笑った。
祖母らしい、派手で上等なスーツを着せて、ストッキングをはかせ、
靴をはかせ、私と看護士さんでメイクして、
祖母が生涯愛した香水を首元に振りかけた。
全ての作業が、晴れがましくて穏やかで、楽しかった。
皆、笑っていた。
心の底から、皆同じ気持ちだったのだと思う。
死が、こんなにも穏やかで美しく、全てがおさまるところにおさまったような、
自然を感じさせるものだとは思ってもいなかった。
私たちは、盛んに笑い声を立てた。
祖母を見ると、祖母も笑っていた。
本当に、穏やかに明らかに笑っていた。
なんて美しいんだろう、と、私も家族も皆、見惚れた。
癌で苦しんでいたときは、別人のような顔をしていた。
母が、「ああ、これが本当のお母さんの顔。戻ってきた・・」
と、懐かしさを滲ませた声で感嘆のため息をついた。
えらく笑ってるなぁ、綺麗だなぁ、と私達孫も笑って、
あんまり美しいものだから、祖母の写真を撮った。


葬儀会社に手配し、すぐにドライアイスが担ぎ込まれた。
酸素ボンベとレンタルしていた介護ベッドなど、全てすぐに引き取ってもらった。

その日は、祖母が大好きだった巻寿司を、母の友人が作ってくれたので、
笑っている祖母の横で、皆で食べた。

翌日、葬儀会社が棺を持ってきて、祖母をおさめ、白い布で覆った。
棺が担がれて、家を出るのを家族で見送った。
祖母が一から築き上げた自慢の庭には、色とりどりのチューリップが咲き乱れ、
パンジーが咲き、公園にも花が咲き、街路樹のモクレンと桜も満開だった。
抜けるような青空が広がり、甘い香りが春の風に乗って私達に届き、
風で散る髪を洗うように、優しく流れていった。
車が見えなくなるまで、見送った。
道の両側を満開の桜が咲き誇り、まさに花道だと思った。


癌だから、叶った死に方だった。
祖母は残りの数年を、癌と共に生きていた。
最後まで、癌と共にあった。
祖母自身、家族それぞれに、宣告されてからの日々を、
死と向き合って暮らした。
もしかしたら、という期待と、やっぱり勝てない、という失望との狭間で、
皆、無言で懊悩した。
祖母は、悩んだ末に選んだ。
葬儀会社の手配まで、済ませてあった。
私たちのための喪服まで、きちんと揃えてあった。
何があっても病院へは行かず、愛した自宅で亡くなることを選んだ。
迷っても、最後には自分が望むままのものを選んだ。
選ぶことには、覚悟がいる。


祖母の介護をさせてもらったことで、
祖母を通して、自死以外の死と向き合うことで、
私は、死について、またひとつ学んだ。
死ぬことは、悲惨でも極楽でもない。
生きたようにしか、死ねない。

満開の桜を見ると、祖母の微笑んでいる美しい死に顔を思い出す。
私にとって、死は、悲惨でも極楽でもなくなり、
逃げ場所ですら、なくなった。
死ぬことは、生きること。
いつ死のうが、どう死のうが、どう生きたかだけが問われる。
祖母の死に方に、心から感謝する。
祖母が、癌と闘い生にしがみついた姿も、放棄したくなった姿も、
鬱になった姿も、歩くことすら、寝返りすら打てなくなった姿も、
廃人のようになった姿も、それでもモチーフを編む手を止めなかった姿も、
私は、どれも覚えている。
醜くも美しく、みっともなくも天晴れだった。
死とは、そうでなくてはならない。

私の目標は、家族を持つことになった。
私が老いて死ぬとき、
何があっても自宅で死なせてくれる家族を持ちたいと思った。
私達がそうしたように、私の好みに合わせて、
不謹慎だといわれようが、真っ赤なレースの下着をまとって、
棺に入りたいと思った。
その姿を無言で見せることで、
死は、生と同じようにかけがえのない財産なのだと、
伝えられたなら、どんなにか幸せなことだろう。

私の中に、かけがえのない財産が眠っている。
祖母が最後の最後に、私に与えてくれたもの。
無言の死という、素晴らしく、世界中の宝玉にも勝る財産だ。




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◇祖母の思い出


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2007/10/27 (Sat) 祖母の思い出

二年前に、祖母を末期癌で看取るまで、
とてもお世話になった在宅ホスピスの活動をしている
先生の講座に母と出向いた。

死に方は、生き方でもある。
祖母は、癌を告知されてから死ぬまでの数年、
その生き方をもって、私たち家族に大切なことを教えてくれた。
祖母を自宅で看取ることが出来て、本当に良かった。
いつか、祖母が死ぬまでの記録を、写真と共に一冊の本にしたいと思う。
癌と戦っている人、癌患者を家族に持つ人、家族を見送った人、
様々な人に見てもらえるように。


夕方から、「マヤ・インカ・アステカ展」へ出かけた。
世界史が好きで、色々な文明を見てきたけれど、
これほど予想外に度肝を抜く文明というのは初めてだ。
人間の血を求める神々のために、王から奴隷までもが
体を傷つけ、血を流すことを習慣としていたようだ。
死んでも生前と変わらないスタイルで生活をしていたとか、
ミイラを製造していたエジプトとは、また全く違った宗教観、死生観だ。
中国の纏足に似た人体改造、出血での酩酊感を味わう習慣等、
昔も現代も、人間の発想、思考回路というものは、さほど変わりないらしい。
と、SMの世界と比較して考えた私の頭は、
一体どうなっているのか。


帰りは、ブランドが立ち並ぶ通りを歩いて、ウィンドウショッピング。
ヴィトンのバッグ、可愛すぎる。
ガラスケースの中の、新作の靴を覗き込んでいたら、母が隣で
「おばあちゃん、死ぬ1ヶ月前でも、
ヴィトンのバッグ買いに行くって言ってきかなかったのよ」
と、おかしそうに言った。
祖母は、肺癌で81歳で亡くなったが、
痛みで寝返りさえ打てなくなっても、
どれだけ痩せても、朦朧としても、
死ぬまでお洒落を忘れたことがなかった。
私のヴィトン好きは、一部祖母の影響だ。


祖母が亡くなって、遺品を整理しているとき、
亡くなる直前に届いた通販のカタログを見つけた。
目が高い祖母が好みそうな上質の赤いバッグに、
大きな丸印がついていた。
「ベッドの上で動けなくて出かける予定も気力もないのに、
80過ぎてこんな赤いバッグ買って、どうする気だったんだろう」
母が、呆れ半分笑った。
ああ、祖母は祖母らしく生きて死ねたんだ、と思ったものだ。


祖母は、祖母の衣服の中から私たちが選んだ服を身に着けて棺に入った。
上質なレースの赤い下着を身につけ、
息子から贈られた、お気に入りの数十万のスーツを着て、
私たちに施された化粧をし、
生涯愛用した香水をまとい、棺の中で微笑んでいた。


祖母が歩いたルイ・ヴィトン前の道を、母と歩く。
風が強くて、飛ばされそうなマフラーを、片手で押さえて歩いた。

時間は、風みたいに吹き過ぎて行く。





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美鳥(みとり)

Author:美鳥(みとり)
被虐待サバイバー。解離性同一性障害、うつ病、対人恐怖症ほか色々闘病中。境界性パーソナリティ障害寛解しました。毎日の光と影を綴ります。生育歴・来歴・病歴・活動はこちらをご覧下さい⇒<はじめに Profile>

講演活動・ユーストリーム放送しています。
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診断名の有無に関わらず、生き辛さを抱える方々と温かい繋がりを目指しています。ご感想ご意見など、お気軽にどうぞ。お待ちしています。

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