
実家のインコ”いろは”
常にカメラ目線
人間でいうところの幼稚園年長さんになりました
プロフィール記事を見ていただければお分かりのように、私についている診断名は複数ある。診断書に書かれていない、もしくは自己申告していない症状も合わせると二桁は越える。
それらが毎日の生活に出るわけではなく、あっちが引っ込んだと思えばこっちが出てきて、治ったかと思ったら治っていなくて、単に解離していて自覚が持てていないだけ、ということが頻繁にある。
以前記事で「診断名や何病かはどうでも良いと思っている」と書いた理由の一つは、上記のような状況があるからだ。
それ以前に、もっと重大な精神疾患者全般に通じる私なりの自論があるのだけど、それは別の機会にしよう。
とにかく、色々症状が出たり引っ込んだりするのですっかり忘れていたのだが、私の病気の一つは境界性パーソナリティ障害なのであった。
思い出したのは1ヶ月前、去年のことだった。
ある日突然、とある友達との関係に、無性に不安を抱くようになった。「嫌われているのでは・・・?」という不安だ。不安は日に日に増していき、このまま行くとどうなるかは明白だった。不安に耐えられなくなり、近日抑圧のタガが外れて感情が爆発し、最悪、その友達の気分を著しく害するのだ。その後、気まずくなって疎遠になり、縁が切れる可能性も高い。
最悪の事態を避けるべく、まず私が始めたことは、チェック項目を設けることだった。
境界性人格障害の不安発作には、パターンがある。必ず不安に陥るきっかけがある。以前は、理由もなく幼少期のトラウマだとか何だとかで突然不安になるものだと考えていたが、そればかりではないことに気付いた。
健常者からは理解できなくても、境界性人格障害者ならではの感受性で、不安や見捨てられ恐怖を呼び起こされる事実や原因が確かに存在することがある。
自分に課したチェック項目は、多岐に渡った。
まず考えられるのは、不安になった1ヶ月前に、友達との間で実際に何かあった可能性。
1ヶ月かけて考えたが、何も思い当たらなかった。強いて言えば、前よりもメールの回数が減っていることくらいだ。しかし、そんなことで不安定になるような希薄な関係でもない。
それに、メールを送っても返ってきても、不安が解消されるどころか日に日に強まっている。何故だろうか。
何となく頭をかすめた記憶があった。
その友達に、2週間ほど前に電話をかけた時の会話だ。
不安のあまり、別段用事もないのに電話してみたのだ。不安を相手に伝えることなく、自分でこっそり突き止めようと思った。境界性人格障害(ボーダー)の不安発作は、もし何でもないのなら相手に対して失礼だ。相手に知られることなく、自分を立て直せるならそれに越したことはない。
しかし、電話はうまくいかなかった。何となくだが話が盛り上がらず、電話を切った瞬間に深く落ち込んだ。
いつでも会話が盛り上がるとは限らないから、気にすることはないかもしれない。そもそも取り立てて用事もなく電話をかけたのだから、あんな感じが妥当だろう。
では何だろう、私のこの不安は。
チェック項目を、まだまだチェックする。
友達とは無関係の私の個人的なコンディションのせいで、過敏になっている可能性がある。
例えば、最近体調が悪い。連動してメンタルも落ち込んで、結果ナーバスになっているのではないか。
もしくは、メンタル面に問題があるとか。友達とのやりとりの中で私の感情が遊離して、無関係なトラウマを無意識のうちに引き出したのかもしれない。
チェック項目は、まだまだある。
他の友人との間で感じた不安定さや引っ掛かりを、親しいその友達に投影している可能性だ。一人とうまくいかないと、すべての人とうまく付き合えない気がする時がある。それかもしれない。
あらゆるシュミレーションを脳内で繰り広げ、一つ一つ可能性を潰して、更には途中で相手には暴露せず秘かに自分と相手の様子を見た。
そんな具合に、1ヶ月チェック項目と向き合ってきた。
一重に、過去の同じ轍を踏まないため。自分の境界性人格障害の不安発作で、誰かに迷惑をかけないためだ。
チェックを終えたところ、ひとまず私とその友達との間には、喧嘩もなく、行き違いもなく、すれ違いもないという結論が出た。
本当に何も原因が見当たらない。
原因が見つからないなら、お手上げだ。
改善しようがないという絶望と、正体不明の不安が限界に達した。
唐突に友達に言ってしまいそうだ。
「私のこと、嫌いになったよね?」
「私、何か悪いことしたよね?」
「私と距離置こうとしてるよね?」
以上のように、質問の形を取りつつも、ほぼ断定、決めつけ的質問だ。
「嫌いになった」「悪いことをした」「距離を置いている」
もし相手にそんな気が微塵もなければ、言われただけで相手は傷つくだろう。
私も、境界性人格障害の友達から言われて傷ついたことがあるから分かる。
しかし、このままでは私は近いうちに破壊王になってしまう。せっかく築いてきた友人関係のちゃぶ台返しだ。怒りのためじゃない。不安や恐怖にいたたまれずに、私はこれまで友達と共有してきた信頼関係や何かを一気にぶち壊してしまう。
思い切って、電話することにした。
前回と違って、今度は正直に自分が「あなたにボダッていて不安で仕方ない」と伝えるしかない。そうして、自分が何か気を悪くすることを言ったりしなかったか、私とあなたの間に何か不愉快な事件が起こらなかったかを率直に訊くのだ。ただし、感情的ではなく、関係を大切にするために。私の症状から、大事な友人関係を守り継続するために。
電話に出た友達は、私の唐突な告白に少なからぬショックを受けた。
彼女は私が東京に来ることを知って、私との遊びプランを考えて楽しみにしていてくれたらしい。
私から連絡が来て、てっきり遊びの予定を立てるのかと思いきや、「私、あなたから嫌われている気がする」と言われたものだから、「なんで?なんで?」と彼女は面食らって傷ついた。
正直に話した。
何もなかったと思うけど1ヶ月も前から不安で何とかしようとしていた」「理由を考えてたけど分からないから、ボーダーの症状かもしれない」
友達は私の話を聞いてくれて、率直に「悲しいよ」と言ってくれた。
胸が痛んだ。
とはいえ、境界性人格障害(ボーダー)の厄介なところは、猜疑心や不安がなかなか消えないところ。その都度、とことん納得するまで分析しておかなければならない。少しの引っかかりでも残していると、残った不安がまた膨らんで同じことの繰り返しになってしまう。
だから、友達に付き合ってもらって、私が不安になり始めた1ヶ月前に遡り、現在までに私が不安になるようなきっかけがあったのか一緒に考えてもらった。
そうしたら、彼女のプライベートがちょうど1ヶ月前から不安定になっていたことが判明した。詳しく聞いてみると、深刻な状況だった。彼女自身も、1ヶ月前から元気が出ないし何もやる気がないと言う。彼女の状況をその時初めて知った。元気がなさすぎて、そのことを私に話す元気もなかったのだ、きっと。
2週間ほど前、秘かに意を決してかけた電話で、彼女が私と話していても心ここにあらずの様子だったのは、彼女がとても不調だったからだと分かった。
上の空の彼女の応対が、私には素っ気無くて社交辞令に思えた。話も盛り上がらないし私と話していても一向に楽しくなさそうな様子に、「嫌われているのかもしれない」と解釈した。
私がボダったのには、きっかけがちゃんとあった。
友達のプライベートな理由で私が知りようもない出来事が、彼女の雰囲気をいつもと違うものに変え、私はそれを受話器越しに感じていたのだ。何とはない違和感に、ボーダーは敏感だ。
その日、私は自分のことを新たに知り、友達も自分自身の調子について新たに知った。
私は、境界性パーソナリティ障害の思考傾向をいまだ少なからず引きずっていることを自覚した。
友達は、電話口で相手が感じる程、自分が元気を失っていることを自覚した。それも1ヶ月も前から。
お互いに確認して、思わず笑った。
今回の友達は、境界性人格障害ではない。だから、私の見捨てられ不安から来る唐突な発言「嫌われてると思ってた」などは、感覚としては理解できないだろう。でも、知っていてくれるから一緒に考えてくれる。
暴露して考え話し合って、私の中から不安は跡形もなく消えた。
こんなことなら1ヶ月も悩むんじゃなかった、とも全く思わない。
私は、自分の症状、特に境界性人格障害の猜疑心で一杯になって攻撃的になったり、破滅的になったりした私で大事な人を傷つけたくない。
かといって、境界性人格障害だからといって、全ての不安が根拠のない妄想だとか、全ての猜疑心が相手への不当な不信だとも決め付けたくない。
自分の心の中に何が起こっているのか。
相手との間に何が起こったのか。起こっていないのか。
どこまでが私の思考で、どこまでが不安や恐怖が見せる幻影なのか。
1ヶ月かけて考えるだけの価値はあった。
境界性人格障害から回復するための、これも一つの大切な経験値だ。
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境界性人格障害 | comment(2) |
記事更新のお知らせです。
今日、とあるブログ記事を読んでいて、「なに言ってんだコイツ・・・全然意味わかんねぇ」と思ったら、自分が書いた記事でした。びっくりしましたよ。
◇返信5 − 境界性人格障害者と付き合う −
頂いたコメントの中で、境界性人格障害の方とお付き合いされてらっしゃる方がいらっしゃいました。お返事を書いていく中で、私がこれまで勉強してきたことと、境界性人格障害である自身の経験が重なり、少しなりとも参考にして頂けるのではないかと書いた記事です。
境界性人格障害の患者を身近に持ち、真剣に向き合ってらっしゃる方々をサポートできるよう成長したいとは、先々の私の目標の一つなのですが、そんな思いをあらたにこめまして、全文修正致しました。
前回の、意味不明でフワッとわけが分からなかった支離滅裂乱文を読んでくださった読者の方、相済みませんでした。
コメントくださった方に、深くお詫び申し上げます。
修正しました記事は、こちらです。
◇返信5 − 境界性人格障害者と付き合う −
心の病気や虐待について理解が広がりますように。ランキングに参加しています。応援よろしくお願いします。
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境界性人格障害 | comment(2) |
※10月29日 23時 全文修正
当方の事情で、勝手ながら「コメント返信を記事としてアップ」させて頂くのも、5回目のこれが最終となります。
今後は、お一人ずつにコメント欄でお返事を書く以前のスタイルに戻します。
◇お知らせ (10/08)に頂いたコメントは、少しずつコメント欄で返信させて頂きます。今回の◇返信1〜5までに頂きましたコメントは、事前のお知らせ通り返信しない方針でおります。ご了承ください。
ここで少し、このブログのコメント欄について。
実はこれまで、私のブログにおいて、皆さんから頂くコメントや感想に対する返信が、実は大変重要なのでは、と考えていました。まず書いた私自身が更に考えを深められる点において、記事よりも返信で書いたコメントの方が余程的を射ているということが過去もよくありました。
返信文もやたらと長くなってしまうのが恒例です。今回、私のフィジカル、メンタル両面の調子が整わず、やむを得ずこのような「コメント返信を記事にする」という形態を取りました。しかし、今後何か病気への理解や、当事者からの率直なご意見を頂いた際は今回のような形態で記事にさせて頂こうかと考えています。
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イチゴさんへ
イチゴさん、こんばんは。はじめまして。
コメントを頂いた時、リアルタイムで受信して拝見しました。とても根が深い問題だと感じ、Twitter(当ブログ右下に設置しているリアルタイム呟きです)で短く感想を述べさせていただいたのですが、携帯からでは御覧頂けなかったかもしれません。
イチゴさんが読んで「救われました」と書いてくださった記事は、ボーダー症状の真っ只中で何が一体回復なのか分からずにいた昔書いたものです。あの記事には、答えがありません。ボーダーという暗く出口のない陰鬱な通奏低音が鳴り響き、孤独を発しても弱弱しく、どこにも届かない海底の行灯のようです。
あの記事を書いたのは私ですが、今の私は違う地点に立っています。ボーダーから回復しようとしている。あの記事を書いた時も、回復したがっているように見えるかもしれませんが、何が回復なのか明確に分からない患者は、目指す方向もわからないので、苦しんでいる割に回復を目指しようがない、むしろボーダーでいた方が楽であるという面もあります。あの記事を読んで、「救われました」とコメントを頂いたこと、実は不思議に感じました。
以下は、真剣に悩んでらっしゃるイチゴさんに対し、かなり辛口の返信となりますこと、ご容赦下さい。
私個人の経験から、愛憎や、愛情の顔をした虚無のスパイラルが如何に不毛な苦痛の関係性を生むか知っています。イチゴさんから頂いたコメントに、同様のものを見出さずにはいられませんでした。
気付いたことはお伝えせねば嘘になると思い、数日考えた末に書いています。是非、最後まで読んでくだされば幸いです。
まず最初に私が強烈に感じましたのは、境界性人格障害である彼の問題とは全く別に、イチゴさん自身が何らかの人格障害である可能性が実に高いということです。
お会いしたこともなく、一度のコメントでここまで申し上げるのは一種の冒険です。
人格障害者の心性は、人格に障害を持たない人間にとっては、実にデタラメで一貫性がなく、付き合うには苦痛を感じるものです。しかし、同じ人格障害者にとっては、相手のデタラメさや一貫性のなさが、自身の言葉にならない感覚にフィットするあまり、魅力として映るようにできています。
境界性人格障害とは何か?
一言で言うと「言動の一貫性のなさ」に尽きるのではないかと思います。
白だといった瞬間に黒だと言ったり、愛していると言ったかと思えば、お前なんていらないと言う。ありがとうと泣いて感謝したかと思うと、お前に分かるわけがない!と相手を責める。
何故、境界性人格障害という病が生まれるのか、その点は今回は省略させて頂きますが、少なからず生まれて今まで、家族をはじめ人間関係のカオスの中で生き延びるために身に着けざるを得なかった背景があります。
イチゴさんが書いてくださった彼も、元々デタラメな家族環境にあったために、自分自身もカオスに染めることで生き抜いてこられたのかもしれません。
>知り合った頃の彼はボロボロに傷ついている感じで、アタシといると癒されると言うのでほっておけなくなり 人格障害であることも告白され、理解しようと色々サイトも見ました…
彼の場合、彼自身が自分の病気に対する理解にいまだ及んでいないように感じた一文でした。
昔は分かりませんが、今の私でしたら、大切に思う相手には、まず自分が人格障害であることは告げません。他の病気と違い、境界性人格障害は時として、相手に自分が不愉快な態度を取ってしまった時、それは自分の意志ではなく、病気がさせているものなのだと言い訳になってくれます。
そういった逃げ道を作るのは、他人を傷つけることなく生きて行こうとする覚悟が揺らぐので、私はある時から自分で塞ぐようになりました。自分を癒してくれる相手にも刃を向けてしまうのが、この病気の最悪に悲劇的な面なのです。
境界性人格障害者は、基本的に自分自身をゴミクズだと思っています。ですから、交際相手も理想から離れた人に魅力を感じて付き合いますし、二股をかけては誰かの心理を操作してみたり、自暴自棄な態度を取ってみたり、急に泣いて縋ってきたりします。
例えば人格障害である彼は、「可哀想」に見えるかもしれません。しかし、上記のような行動をする人を前に、イチゴさんがまずしなければならないことは、ご自身を相手の攻撃から守ることです。彼の言動には、彼自身が責任を取るように仕向ける意識が大切です。それは同時に、イチゴさん自身もご自身の言動に責任を取ることとイコールです。
この点は、境界性人格障害者と付き合うにあたって、厳しく取り組まねばならない点です。理性や頭で、境界性人格障害の問題行動の元凶や思考回路を理解することは重要ですが、感情や人情で共感することは慎重に避けねばなりません。人格障害に対しては、情だけで救えないのが現実です。
>ずっと彼のいいように、楽になれるようにと考えていたつもりだったのですが…最近新しく彼女が出来ました…もうアタシのことはいらなくなったのだろうと身を退くことにしたのですが、彼はそれを拒むんです。
ボーダーに対して最も不適切な対応は「彼のいいように、楽になれるように」と考えることです。
ボーダーは、いいようにしてもらっても、楽になれるように考えてもらっても、満足することはなく、楽にもなれません。境界性人格障害者に真に必要な他者は、自分が如何にブレても、絶対にブレない相手です。
赤ん坊に接するように接しては、ボーダーは悪化します。彼は、人格障害であるかもしれませんが、大人であることに変わりはありません。人格障害のままで生きて行く道もあるのかもしれませんが、もし彼がそのような考えであるならば、イチゴさんが悩まれても、どのように彼のためを思っても、徒労に終わる可能性が高いです。ボーダーを支えるということは、優しさや曖昧さを持っていては出来ません。本人は勿論のこと、ボーダーは周囲の人間の人間性も暴く鏡のような面も持ち合わせています。
彼のことを思われるのでしたら、まずイチゴさん自身が一貫性を強固に保たれることが最も重要です。
例えば、イチゴさんは家庭を別にお持ちです。私は別段かたい倫理観を持ち合わせているわけではありませんので、あくまでも物理的レベルでお話しますが、家庭を持っている人と付き合うのは多くの矛盾を抱えざるを得ません。
最も大きな矛盾は、「何でもしてあげたい」と仰るイチゴさんであっても、ご家庭をお持ちであれば、彼のボーダーの振り回しに全て付き合う時間はもてません。
先ほど申し上げたように、ボーダーにとって最も支えとなるのは、「行動パターンに矛盾を持たない、誰にも嘘をついていないと思える相手」です。逆に、行動パターンに矛盾が多く、どこかに秘密を持たなくてはならない関係や、ある種取引をせねばならない相手とは、症状が悪化する場合が多いです。恋愛関係であろうと何だろうと、事前に不倫だと申し合わせてスタートしようとも、どのような条件化であってもです。また、そのような相手を選ぶことで、境界性人格障害である自分を切り捨てずに生きて行ける状況を無意識に作り出して逃げ場にすることも多いのではないかと私は感じています。
理性的に自分を律して生きることは、誰にとっても苦痛で、思うさまに感情を吐き出し、ぶつけ、跳ね返ってきては泣き、怒る方が、まだましであるという場合も多いと思うのです。
もし、イチゴさんが彼に対して悩まれていて、具体的に行動を起こしたいとまで考えてらっしゃるのであれば、イチゴさんご自身の個人的な彼とは無関係な生き方の部分まで、矛盾はないか、自分に嘘をついてはいないか、を省みることが大切だと思います。
また、ボロボロに傷ついている人は、まず自分で立ち直らねばなりません。誰かと愛情関係を結んだりするのは、その後です。愛情によって救われたいと私も何度思ってきたか分かりませんが、愛憎のスパイラルを生み出すばかりで、不毛な苦痛を味わい、人生への絶望を重ねて来ました。
人格障害の回復は、ある日突然天からもたらされる神の慈愛や、恋人の愛情だけでは決して救われない類のもののようです。
また、厳しいようですが私は、誰かに献身的にボランティア精神で人生を支えるとか癒すなどということは不可能だと思っています。大業です。もし取り組もうとするならば、自分のすべて、家庭も何もかもかなぐり捨てる覚悟で向き合わねばなりません。自分自身の生き方を正すことに専念し、救いたい相手がどれだけ揺らいでもブレても、自身は揺らがないでい続ける覚悟が必要です。例えば、相手のボーダーの症状、不適切な言動には悉く人間らしく拒絶を示し続けなければなりません。
ここまでは、境界性人格障害者との向かい合い方について主に書きました。
以下は、冒頭の件に戻ります。
最初に私が、イチゴさんご自身が人格障害なのでは?と書いたのは、実は文面から、イチゴさんの主体性が全く見えないままに文が終始したからでした。
境界性人格障害者にとって、皮肉にも、振り回しや不安定な感情、価値観にうまくフィットして、共依存を築きやすい人格ではないのかと感じたのです。
イチゴさんご自身は、当事者の一人でありながらコメント文の中で、影を持たない、実に薄い薄い存在として立ち現れています。
私が最も違和感を感じ、注目した点でした。
自我が薄いか、もしくは境界性人格障害である彼の感覚との境界線が曖昧になっているのではないかと考えました。
以下、イチゴさんの自我について考えてみました。
内容ではなく、表現に注目してみてください。
>今日も彼女と会っているようなので、ホントはアタシが邪魔なのでは?と言うと、めんどくさいから好きにしろ!と…
あくまでも「彼にとって邪魔なのではないか?」であって、自分が主体ではありません。言外に、「彼が邪魔だというなら去る」と含んでいます。
彼の気持ちを知りたいという気持ちがあるから質問するという行為が発するわけですが、訊く言葉の中に、イチゴさんご自身は彼と一緒にいたいのかいたくないのかという主体性が欠けています。主体性は、大切なことを話し合う場面であればあるほど、明確にすべきです。相手の立場に立って一人考えることは大切ですが、相手と向き合ったときには、あくまでも自分の立場から言葉を発さなければ、コミュニケーションは複雑に絡まってしまい、本質が見えなくなります。お互いに言葉を投げ合っても、全くすれ違ってしまい実りを得られないのは、こういった言葉の構造があるからだと私は考えます。
彼の人格障害が問題ではなく、この場面はイチゴさんの自我のありように問題があるように感じました。
また、出方をうかがってくるようなセリフ、本心を探られるようなセリフは、疑心暗鬼なボーダーにとっては「相手が何を考えているのか分からない」という恐怖にかられるやりとりです。恐怖にかられるとボーダーは投げやりになってしまいますので、本心を知りたいというイチゴさんの意図は遂げられないことになってしまいます。
>新しい彼女は独身ですし、彼のことを好きなよう(アタシに嫉妬するので)だから世間体を気にすることもナイし…
イチゴさんの主体性が、また見えません。むしろ、最も妙な立ち位置だと感じました。
彼がどんな条件の女性を選ぶのかは、彼の問題です。条件がどうであれです。世間体を気にしないで済むことがいかに重要か不倫経験者の私は重々身にしみていますが、それでもやはり、人間はいつも独身だから選ぶとか、世間体を気にしないで良いなどという理由だけで相手を選べるほど器用でもありません。
もし、ここに書かれた一文を彼に言ったのだとしら、彼は激怒するのではないかと思いました。私は少なくとも、有難い言葉ではありません。イチゴさんは、他者との精神的境界線が非常に曖昧で、無意識に相手の領域に踏み込んでしまう傾向にあるように感じます。
相手の彼女の嫉妬心にまで考えを及ばせるのは、彼女の立場からしても失礼に当たることではないでしょうか。個人的には、そう思います。彼女の苦しみを想像でき、こうして想像されている時点で、イチゴさんがご自身の感覚に従うならば、すぐに身を引くべきです。
イチゴさんが優先されるのは、どなたでしょうか。イチゴさんでしょうか。彼でしょうか。彼女でしょうか。
自我が曖昧ということは、対人関係においてのプライオリティも自然曖昧になります。彼の人格障害とは全く別に、イチゴさんご自身が、対人関係において煩悶するシーンは多くないでしょうか。
彼が聞きたいのは、イチゴさんご自身が、どうしたいのかだけが聞きたいのではないでしょうか。彼の人格障害は最早この時点で、無関係です。
イチゴさん自身の問題も少なからず大きく影響しています。
他人のことを思い行動するのは、得てして心地が良いことです。
私は、随分と自分の問題から目を背けるために、ボロボロな人や、どうしても自分を必要とする人のために尽くしました。それもまたズタボロになりましたが、自分の人生に対する決定をするよりも100倍楽でした。
しかし、自分の現実を考え、決定し、意思表示し、関わった人間それぞれの意志がかたまるまで辛抱強く待ち、他者の決定を尊重し、受け入れる覚悟は、総じて大変苦痛です。
>彼の望みはアタシと彼女と2人の彼女と付き合っていきたいようです…
彼のしたいようにさせてあげたいと思うのですが、彼女のほうが気の毒で
言っても聞いてもらえなくて…オマエの言ってることがわからん!と…
イチゴさんの主体性の希薄さが、ここでも顕著です。
彼の望みは彼の望みで、どう決定するかは彼次第です。彼が決定しなくとも、イチゴさんが決定することもいつでも可能です。
この点が、とても重要だと思います。彼が決めようが、彼の彼女が気の毒だろうが、イチゴさんはイチゴさんのことしか決められません。考えること、話し合うことは大切ですが、決めるのは自分だけです。誰かに決めてもらおうと期待するのは、別に彼が人格障害でなくとも、他者の領域を侵し、彼を尊重しない行為と同等になってしまいます。
イチゴさんご自身は、二股である状況にどう感じてらっしゃるのでしょうか。自分が納得いかないから別れたい、もしくは彼女と別れて欲しい、もしくは二股でも良い、と彼に話すのは私はとても自然だと思います。しかし、彼女のほうが気の毒かどうかは、イチゴさんが口にすべきことではないと思うのです。それは、今度はその彼女の領域、彼女の決定、彼女の煩悶や嫉妬をある意味、イチゴさんの支配下に置く行為となります。先ほども申し上げましたように、独身の彼女の権利を侵犯していることになります。
イチゴさんが悪意を持ってらっしゃらないことは感じます。
悪意をお持ちだなと感じたら、時間や言葉を割いて返信は書かないのが私のルールですので、全て私が考えたことを率直に書かせて頂いております。
>ここにきて、彼の気持ちが少しわかったような気がします
実はイチゴさんは、もう十分お分かりではないかと私は思います。
分かる分からないの次元ではなく、単に見えないのではないでしょうか。行動が支離滅裂な人の気持ちは、どれだけ目を凝らしても見えないのが普通です。
ボーダー患者によっても個人差はありますが、イチゴさんが語られる彼については、自覚のない支離滅裂さや、回復を目指すのではなくボーダーの衝動に任せて生きている傾向が強いように感じます。ボーダーの心は、誰かが救えるものではなく、慰めも慰めとならない病気です。しかし、本人の覚悟があれば治る病気です。私は、確信しています。
ボーダーと接するには、共感や優しさも勿論必要ですが、相手の障害に振り回されない強い人生観と一貫した言動、相手の非は非として指摘し、クッションとなってやったり逸らしてやったりせず、相手の言動はきっちり反射して返す。その厳しさが不可欠です。
答えは、イチゴさんご自身の中にあるはずです。
イチゴさんが理解すべきは、彼の心情ではありません。イチゴさんご自身のお気持ち、人生観、価値観です。イチゴさんの自我の確立が大きな課題ではないのか。そのように考えました。
境界性人格障害者の周囲の方々は、へとへとに疲弊している方が多いです。境界性人格障害者の問題行動が疎まれる理由もよく理解できるのですが、その障害者と付き合わざるを得ない方達にヒントとなる核心的教科書はまだまだ少ないです。少しでも参考にして頂ければと、長文で失礼致しました。
悩まれて調べられたとのことですが、もし未読でなければ以下の本をおすすめします。
ボーダー治療の先駆者でいらっしゃって、境界性人格障害者の周囲の人たちのために書かれた、具体的な対処法のワークブックのようなものです。
![]() | 境界性人格障害=BPD 実践ワークブック―はれものにさわるような毎日をすごしている方々のための具体的対処法 (2006/02) ランディ クリーガージェイムズ・ポール シャーリー 商品詳細を見る |
頂いたコメントから、今回は周囲の方の対処法にのみ言及しました。境界性人格障害という病気の厄介さ、闇の深さ、回復と非回復傾向にある患者については主旨からずれるため、敢えて言及しませんでした。
有意義なコメントを頂きまして、本当にありがとうございました。
◇2008/04/06 (Sun) 水底に至る - 境界性人格障害 -
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はりモグ さんへ
はりモグさん、こんばんは。はじめまして。お返事が大変遅くなりまして、申し訳ありませんmm
いつも読んで下さっているとのこと、本当にありがとうございます。最近特に、書くことがままならなくなり、只今色々と鋭意努力中でして、そんな最中に大きな励みの言葉を頂きました。
不慣れな中、コメントくださって、ありがとうございます。
私も今だ、他のブロガーさんのところへコメントを書くのは緊張します。最後の送信ボタンを押すと、別に変なことを書いていなくても「やってしまったのでは・・・!?←なにを?」という気になります(笑)ご迷惑かなどお考えなく、今後もどうぞお気軽にコメント下さい。コメントでの交流が、私はとても楽しみです。
>― ボーダーにとって、「もう行かないと言ったけれど、待っていてくれるかもしれない。待っているのだろうか」と期待や不安で揺れ動く状況は、できるだけ避けた方が良いと私は思っています。 ―― 本当に…本当にそうですね。『言外のコミュニケーション』が素晴らしいものになるときもあるのかもしれませんが、時にはそれが激しい毒になるときもあると感じています。
「コミュニケーションの毒」と銘打たれてらっしゃいましたが、この日本人にありがちな曖昧さというのは、ボーダーや人間不信の治療現場では、まさに毒であると思います。
私個人が、あまりこういった言動を好まないというのも理由かもしれません。出て行けと言ったら出て行ったのに、「何で出て行ったんだよ」とか揉めるときがあるじゃないですか。ああいうやりとりは、言外に察しろよ、ものの弾みで言ったんであって本心じゃないんだからと言いたい場合が多いと思うんですが、私は大阪人なせいか、「どないして欲しいねん!」とツッコんでしまうんですね。
きっと、ストレートにストレートに表現しようとしても、人間の味わいとでも言うのか、行間ににじみ出る何とも言えない言外のコミュニケーションとは生まれるものだと思っています。そうしてにじみ出てくる人間味が私は大好きです。
>こういったことについてもやもやとしていた心を明晰に表現していただいたように思えました。ありがとうございます。
直接のご返信は下さらなくても、一つ一つの記事・つぶやきに美鳥さんのメッセージと意思をはっきり感じられます。
どうぞご自愛ください。
こちらこそ、ありがとうございます。
コメント返信という、読者の方から頂いた言葉に触れなければ自分の位置が分からなくなっているここ1ヶ月です。
私自身が自分にもやもやしながら、苦肉の策ではじめた返信記事。心を明晰にしてくださったのは、はりモグさんはじめ、コメントくださった方々のお陰です。
コメント、ありがとうございました。
また是非、お気軽にコメントいただけましたら嬉しいです。楽しみにお待ちしています。
◇返信 1 − 神経症・AC・人格障害からの回復 − (10/18)
◇返信 2 −Coccoの真相・境界性人格障害からの回復 − (10/19)
◇返信3 − 精神科と投薬治療 − (10/21)
◇返信4 − 解離性同一性障害の治療・良い病院悪い病院 − (10/24)
◇2009/10/08 (Thu) お知らせ
心の病気や虐待について理解が広がりますように。ランキングに参加しています。応援よろしくお願いします。
境界性人格障害 | comment(0) |
境界性人格障害の症状が色濃いときは、分析できているようで全く見当違いなことが多い気がするので避けたいが、以前より自己把握が出来るようになってきたということで、数日間の自分について振り返ってみる。
相変わらず思うのだが、解離よりも、境界性人格障害(以下BPD)の症状に見舞われた時が最も苦しい。人間何が最も苦しいって、自分を嫌いなときが最悪に苦しい。消えてしまえ、死んでしまえ、お前なんかいない方がいい、と自分自身に向かって罵りながらも、身体だけは漫然と生きている自分を見続けるのは羞恥に堪えない。
BPDについて、私自身が一患者としてドキュメンタリーに出演させて頂いたこともあり、この症状が最も厄介で悪質で最低だと認識しているから、随分と自分なりに勉強してきた。
BPDの見捨てられ不安や、妄想様の自虐的思考回路、論理の破綻、感情の暴走、数分置きに右へ左へ激しく傾く世界観、依存心と不安と恐怖心。その他、様々症状は挙げられる。
中でも、最もBPD特有のものといえば、「論理の摩り替え」「悲劇の捏造」だと私は認識するようになった。
どんな過去があっても、理由があっても、現在目の前にいる無関係な人の前で「論理のすり替え」「悲劇の捏造」をやらかしてはならない。BPDであっても、なくてもだ。尊重し合う人と人の関係にあって、起ってはならないことだ。
そんな最低な思考、行動パターンを、精神状態が不安定になると途端にタガが外れたようにぶちまける自分をあらためて知るにつれ、自己嫌悪は相当に募ってくる。
過去の経験や習性に縛られず、今ある目の前のことをしっかり見て、聞き、語り、価値ある行動を選び取り、価値ある人と関係を深めること。BPDにとって最も難しいことだが、これに挑戦しなければ、永遠に苦しみと憎しみと自虐と自己嫌悪の堂々巡りを続けることになる。
PBDの症状にお手上げで、生きていても何も良いことがなくなり、死のうとしていた時に助けてくださったのが、現在のカウンセラーの先生である。
が、悲劇的なことに、その先生に対して攻撃するという最悪な状況を私は繰り返し作っている。以前より頻度は減ったが、まだ私はBPDから抜け出せずにいる。再認識した数日前から、私の自己嫌悪はピークに達している。先生に対して申し訳ない思いと、同じことを繰り返す自分、今の自分の病的な側面を生み育てた過去という歴史、負けまいと立ち向かうと解離に足を掬われ、すべて自分の不徳でしかない事実には、無力感でいっぱいになる。
先生以外に対しては、この攻撃性は今のところ向かわない。皮肉なことにBPD患者の心性には、信頼と拒絶という対極が同居している。その時最も信頼を向けている人に対して、最も拒絶心が生じる。助力を請うた自分の手で助力者の救いを断つといった、矛盾した甚だ理不尽な行動を取らずにいられなくなる。
皮肉な悪循環から抜け出なければ、BPDは治らない。BPDそのものを治す前に、真の助力者を自ら拒絶し治療への道を断ってしまう。
先生に対して、不信でいっぱいで、裏切られるのでは、騙されるのでは、傷つけられるのでは、と恐怖で一杯で自己保身しか頭になかった去年の冬頃、私と先生のやりとりは殆ど喧嘩のようだった。
いかなる理由があっても、疑う必要のない相手に対して、まだ起ってもいない悲劇を恐れて先回りし、やられる前にやらなければ殺されるとでもいうように必死で先手攻撃した。治療に行っているはずなのに、行けば攻撃した。すべてが怯えから来る妄想に端を発していたと思えば、相手が先生であろうと誰であろうと関係なかったのだと思う。
先生は、そういった私の理不尽な攻撃を悉く拒絶した。
私は、それまで味わったことのない完全敗北を味わった。己れの浅ましさ、弱さ、愚かさ、程度の低さを突き付けられた。
私は、あれほど本気で死にたいと思ったことはない。
自分が相当に味わってきたはずの理不尽な攻撃を、私自身が過去の悲劇にとらわれ、目の前の無関係な人に理不尽をなすりつけていた。それが、あろうことかそのまま撥ねかえってきたのだ。
かえってきたものの醜さといったら、目を背けようにも背けられない醜悪さがあった。
過去の痛ましさは誰かの前では痛々しい美になる。手首を切ろうが、ODで酩酊していようが、口さがなく大事な人を罵ろうが、どこか甘い蜜のような美があった。
哀れであること、傷ついていることが、大抵、免罪符にされた。
免罪符として認めなければならない程度の相手でしかなかったこともある。私の病的対人関係にドラマチックにつきあってくれる人は、相手からしても病的な私の方が都合が良かった。共依存というやつだ。共依存という言葉でなくてもいい。自分の都合のためなら、互いの人間性は無意識にどこかへ押しやってしまう人たちのことだ。私も、かつてはそうだった。
先生は、私の過去と現在にある正当性と不当性を明確に切り分けた。当時は、私は生きるか死ぬかに必死で、そんな先生の姿が何を目指しているのか分からず、冷めた目で見ていた。それまでのカウンセラーという職業の人たちへ募りに募っていた不信感のせいでもあった。
分析して何になる?
分析せずに私を助けてくれ!
そう思っていた。
同時に、誰も私を助けることなどできないのだから、助けようとしないで欲しいと矛盾したことを考えていた。
去年から今まで、他にも様々なやりとりがあって現在があるが、日曜日のカウンセリング以来、またも私はBPDの症状が酷く、不安定な精神状態で書いたメールの内容は、大半が「不当な攻撃」とみなされた。どんな理由であれ、人として理不尽な攻撃は一切受け入れることはできない、と久しぶりに宣言された。
以前は、千尋の谷に突き落とされたように絶望で身体が空洞になったように感じたものだ。
今も大して変わりない気分ではあるが、多分私はこの絶望や孤独から学ばない限りは、一歩も前に進めないのだ。
自分次第で拒絶されることもあるカウンセリングとは、そうそうないだろうと思う。
なぜなら、カウンセラーが拒絶したらクライアントの死ぬ可能性は高いからだ。
しかし、生温く私の正当性も不当性も曖昧に認めてくれるカウンセラーであれば、緩やかに効くモルヒネの役割は果たすだろうが、BPDという地獄の堂々巡りから脱却させる特効薬には永久に及ばない。
自分の手で崩した信頼関係を築きなおすには、不当な攻撃をした自分を認め、不当なものを不当と真直ぐ返してくださる先生に誠意をもって応えなければならない。
拒絶という薬を、私は自分に必要なものとして飲み干すようになった。
苦い苦い薬だ。死にたくなるくらい苦い。のんだと同時に目の前の曇りが晴れ、見たくない自分の醜悪さが見えてくる。
また、それを飲まねばならないのか。また、自分の弱さを見なければならないのか。先生が返してきた拒絶を前に、無様にも私はどうにか逃れようとしている。
しかし多分、また私は先生の信念に負けるだろう。
回復したいと願っているのは私であり、治療を目指す先生であり、今の私は不信と恐怖で安定を欠き続け、先生を拒絶しようと必死だが、やはり私の目標もまた、先生と同じくBPDの完治なのだ。
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境界性人格障害 | comment(7) |

感情に隙間が出来る時期があって、
そんな時は何故かいつも、
どうでも良い相手を探す。
その傍らで、
ふいに携帯電話が鳴って、
楽しみに待っていた人からのメールが届く。
どうでも良い相手よりも何十倍も大事だし、
どうせ話すならメールの送り主の彼と話す方が絶対楽しいはずなのに、
私は何故か返信できずに、
何となく、
どうでも良い相手と、
どうでも良い話で、
割合楽しい話をして、
あはははと笑っている。
あはははと笑いながら、
メールをまたちらりと読み返し、
ああやっぱり好きな友達だなと思うのに、
メールを送ってくれた彼は、
本当に私と会いたくてメールしたんだろうか、
義理で仕方なくメールしてくれたんじゃないんだろうか、
などと胸の端に厭な靄がかかる。
疑いを持つ理由などどこにもないのに、
昨日まで、
ついさっきまで、
このメールが来るまで、
考えたこともなかったのに、
何故私は急にこんなにも不安になるのか。
何故なのか考えようとするが、
どうでも良い相手との話にそれなりに熱中してしまい、
メールの相手のことは考えたくなくなってしまった。
どうでも良い相手よりは考えたい事なのに、
何故考えたくないのか。
私は急に、
どうしてしまったのか。
少なくとも、
好きな友達を選択できない今の私は、
自分を嫌いでもないが、
決して好きでもない。
時々こんなことが起こる。
私は、
自分に急に自信がなくなって、
それは誰かから挫かれるわけでもなく、
目に見えて何があったというわけでもなく、
ある瞬間に突然、
自分の足元が底なしの砂地に変わってしまうのだ。
どうでも良い相手と、
じゃあねと電話を切って、
メールを再び読み返そうかと考えると、
またあの厭な靄がやって来て、
一人きりのからっぽの部屋で、
クーラーの静かな音にじわじわと冷やされていると、
さっきよりも靄がどす黒く胸を染めて、
何だこれは、
何をやっているんだ私は、
と嫌悪と焦りで胸を掻き毟る。
専門家は、
こんな気持ちすら病名という枠で囲うことができるが、
この煙のようなどす黒く曖昧な靄は、
枠には少しばかり引っかかるのみで、
あっという間に拡がり私を汚染する。
専門家は、
化学反応を原子レベルから説明する化学者のように、
今の私の状態を得意げに解説するのだろうが、
私の何故には、
答えていることにはならない。
どうでも良い相手の方が、
心に馴染みやすい時、
浪費されゆく時間が、
インクの染みのように頭上の空を曇らせ、
暗澹たるフィルターの下、
私はしばらく大事なものを見失う。
それはきっと哀しいことだが、
何故か涙は出てこない。
それを時々、
繰り返して、
時々、
茫然と生きる。
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境界性人格障害 | comment(4) |

人間の手指の間には、水かき部分がある。
ここにご丁寧に全て、ホッチキスの芯を刺してくれたバカがいる。今回は、よくぞまあこれだけ刺したなという数。そして、予想外に血が出る部分なんだな、と実感。
誰がやったのかは、分からない。察しは付くが、現段階で決め付けることは、やめよう。手当てという手当てもやる気が起きない。たまらなく憂鬱だ。
前に数回同じことはあったが、私は痛みを感じなかった。しかし、穴が2つしっかり残っていることは、ままある。すぐに治ってくれる程度の傷なのが幸いだ。
この傷は早めに治るだろうと無理矢理楽観的に考えることが出来るが、随分前に太腿を剃刀で切られていた傷が、なかなか治らない。それもまた、手当てする気が起きない。
私は、一体誰に何の理由で切られたり刺されたりしなければならないのか。誰かの自慰行為のような自傷の後始末を、この私が何故しなければならないのか。足の怪我よりも何よりも、解離性障害が私の生活を阻んでいる。
ブツ切れの時間を生きていると、いつ何を食べたのかがまず分からない。どこかが痛いと、何故いつこんなことになったのか分からない。血まみれのホッチキスを見つけたところで、それをどこかに隠しても何にもならない。
怒り。
どこへ向けていいのか分からない怒りで発狂しそうになるから、出来るだけ考えず、目の前の出来事を処理することに専念する習慣がついている。
しかし、また考える。考えそうになって、行き場のない怒りは自分へ向かい、死んでしまえと自分を呪うが、呪っている間にまた時間が切れる。
そして私は、耐える。耐えるしかない。
境界性パーソナリティ障害に数日前から襲われ続けている。けれど、行動化すまいと耐えている。
自傷も、自暴自棄も、未来への不安も、現在ここにいる虚しさも、何もかも投げ出して死んでしまいたい衝動も、徹底的に自分を痛めつけてやりたい憤りも、全て封じ込めている。
私の過去に何があろうと、その過去が今の私の人格に何がしか重大な影響を与えているとしても、このあらゆる衝動を誰かにぶつけたり、自己卑下するために他者から罵ってもらおうとしたり、錯乱して相手を罵倒したり、急激な不安に襲われ泣き崩れ土下座して謝罪したり、そんな嵐を起こすまい、誰も巻き込むまいと決めている。
今年の春のこの決意は、私が境界性パーソナリティ障害という病気と付き合っていく上で、少なからず自信を与えてくれた。人と付き合っていく上で、自分自身の正当性を保ち、他者も侵害しないでいられるかもしれないと、安心できることが増えた。
境界性パーソナリティ障害は、対人関係で最も最悪な状況を作り出し、相手が巻き込まれてしまうと、更に底無しの混沌を引き起こす。自分も、相手も、駄目にする。
境界性パーソナリティ障害者にとって「耐える」ことは、苦手だ。不安を抱えていられないのだ。元々の人間不信の上に、人格障害が引き起こす悪循環と連鎖に疲れ切ってしまう。
その挙句に、私は命を繋ぐことも限界を迎えた。
生きるために、本当の意味で自分と他者を同時に尊重しよう。
決意は、死ぬ以上に苦しかった。
だが、だからこそ二度と同じ過ちを繰り返したくない。
本の世界に逃げ込んだり、私が大好きな夢の世界に逃げ込んだり、買物で寂しさ虚しさを埋めてみたり、そんなことでどうにか自分を誤魔化して来たが、何度も何度も波が来て、昨日の夜中にもう無理だと思った。
私の人格を濃厚に染め上げている虚無と破壊衝動と自己卑下と対人恐怖は、私の身一つの中で循環しながら、濃度を高めているだけのように思えるときがある。
耐えるしかないから、ただひたすらに耐える。少なくとも、私の人格障害で周囲を傷つけたり、貶めたりせずに済む。私も、後悔せずに済む。
しかし、それでは私はどうなる。苦しみに蓋をした私は、どうなってしまう。いつまでこうしていたらいいんだ。生きていて、どうなるんだ。
絶望とも、怒りとも、悲しみとも付かない混乱に襲われ、ふいに泣いた。泣いている自分がまた憎らしくて泣いた。眠剤で誤魔化した。しかし、正直なもので夢は銃弾で飛び散った血と肉の匂いでむせかえっていた。目が覚めても、夢のままの匂いが鼻腔に残っていた。
今夜の大阪は、今年一番の突風だ。真っ暗な夜を、雨滴と風が激しく殴りつけている。いっそ走り出て、自分の何もかもを壊してしまいたいが、今の足ではそれも叶わない。
今の自分の滑稽さを笑ってみたり、悲嘆に暮れたりしながらバスルームにたどり着くと、天井の換気口から、ごうごうびゅうびゅうと唸り声が聞こえてきた。
「明けない夜はない」。
胸の琴線を掠りもしない。
私は夜ではないし、朝でもないし、世界でもない。明日のことなど分からない。分かったところで何も出来ない。出来ないことが多過ぎる。
体中が痛くて、身体の芯は空っぽで、頭の中は嵐が渦巻き、脳は未来予想図を描く努力に励み、心は流れのまま嬲られ浮いたり沈んだり狂ったように繰り返す。
私の手は、誰のものか。私の身体は、なぜこれなのか。私の心は、どうなっているのか。いつから私は生きているのか。分からない事が多過ぎる。分からないことは苦しい。無為に苦しい。
私は、世界に見切りをつける。
世界も、あっさり私を置き去りにする。
なのに翌日、世界は何事もなかったかのように朝を招き、何事もなかったかのように私を世界に呼び戻す。
明日も、きっと同じ日が来る。
逃げられない。
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境界性人格障害 | comment(6) |

分単位で感情が上下し始めた。
まずい。
今朝、リアルな悪夢でうなされたのが始り。
去年からの気懸かりを気懸かりのまま留めておこうとしていたのに、あまりに長い時間抑圧し過ぎて一気に形になってしまった。約束されたことが履行されず連絡も来ない相手に、色んな想像をしてしまう。少なくとも2ヶ月は耐えている。そろそろ不安が確定してしまう頃ではあった。
精神状態が暗転した瞬間、歌うことができる場所も、実は不安定なんだ、と気づいた。
バンドのヴォーカルを始めたのだけど、バンドメンバーの耳が肥えていて技術もある。どうせやるなら、向上心のあるバンドに入れてもらいたいと思って選んだ場所だ。けれど、それは逆に強烈なプレッシャーでもあった。
私なんかが、という気持ちがすぐに湧いて来る。
ヴォーカル審査を受けた時、バンドのメンバーに色んなことを聞いた。しかし、一番訊きたかったことを、私は訊けなかった。
私以外に誰があなたたちのバンドの審査を受けたのか。彼女らへの評価はどうだったのか。誰かを保留にしているのか。それとも私だけに期待してくれているのか。
直接的な言葉にできず、間接的に訊いていたら、私の不安が少し伝わったようだった。
突き詰めるところ、全ては人間関係だ。熱意と努力と人間性は、時間をかけて試される。そこに期限などはない。
人生の半分、バンドを続けてきたメンバーたちは、そう話してくれた。様々な条件を互いに満たしあって継続していく継続そのものに意味と価値があるという。
私は、音楽という素晴らしいものの前で、我が身の浅ましさと浅薄さを思い知らされた気がして猛省したものだった。
私は、審査で一発で合格を貰いたいと思っていた。
不安定な立場は、私が最も苦手とするところだ。誰かと付き合うと常に自分が評価されているような気がして不安になる。自分に価値などないことが、いつ相手にばれてしまうだろうかと怯えている。境界性人格障害。もしくは、私の過去が作ってきた私の習い性。
しかし、弱気になった時点で、それは負けたも同然、諦めるも同然だから、必死でモチベーションを高め続けた。寸暇を惜しんで努力した。他の事に手がつかない位だった。体力の限界も気力の限界も、気をつけようと思っていたのに、歌が好き過ぎて楽し過ぎて早々に戒めは吹っ飛んでしまった。
この調子で行くと、いつ気力が途切れるか分からないな、と思っていたら、まさに今日がターニングポイントになってしまった。
努力すればする程、認められたいと思えば思うほど、自分に欠けているものが次々具体的に見えて来る。見えるということは、克服できるということだ。方法も分かっている。けれど、行動する前に心が折れそうだ。このままじゃ、元も子もない。
決定的に不安になったのは、ついさっきメンバーから来た一通のメールだ。
「ヴォーカルは、バンドの顔だし、ヴォーカル次第でバンドが決まるといってもいい。安心して任せられるヴォーカルがありがたい」と書いてあった。
スタートしたばかりなのだから、恐らく普通の内容、もしくは至極妥当な内容である筈だ。
しかし、私には死刑宣告も同然だった。
私は、バンドの顔にはなれないし、バンドに迷惑をかけてしまう、安心して任せてとは到底いえない、ただやる気と努力だけのヴォーカル志願。私は、除外されてしまう。私を除外するための前口上のメールかもしれない。そう思った。
相手の些細な言葉の遣い方に必要以上に反応し、ネガティブに捉える傾向が強烈に出ているのだと思う。
数分前までは、とてもポジティブだったのに、あんなに練習もしてきたのに、努力が予想以上に早く実ってきているのを確かに実感しているのに、一気に自分は駄目だ、と思ってしまった。
60点でも70点でも駄目。将来性や見込み評価は、0点と殆ど変わらない。
今現在100点を取らないと、得たものを失ってしまう。相手を失望させてしまう。1つも失点してはならないというプレッシャーで自滅しそうだ。
バンド活動とは何ら関係ない、今朝方見た夢の不安もごちゃ混ぜになって軽くパニック状態になってきた。
次回のスタジオ練習までにマスターしなければならない曲は、4曲ある。どれも最初から、ちょっと頭おかしいんじゃないの、という難易度の高さだ。だからこそやりがいがあって、今日はとことん練習して、3曲は8割方マスターしたと感じて楽しくて仕方なかった。それが昼のこと。今は、全く駄目だとしか思えない。
僅か数時間で、自分の価値が80点から0点どころか、マイナスに大暴落したわけだ。
自分で自分を追い詰める思考が止まらない。頭がおかしくなりそうだ。
歌うことなんて、努力でどうとでもなる。どうにかしてみせる。でも、その努力すら気力に支えられている。気持ちが折れたら、私には何も残らない。
難しい曲をどう歌うかより、自分という存在の方が100倍厄介だ。
どう扱っていいのか分からない。
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境界性人格障害 | comment(2) |

前回の記事◇土曜に耳鳴る越境(前編) ◇土曜に耳鳴る越境(後編)−解離性障害− の翌日、先週の日曜のこと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝方に目が覚めた。
すぐに気がついたJが水を持ってきてくれて、薬を飲んだ。
子供たちは眠っていて、大人の女2人だけで色々なことを小声で話した。Jの顔色は悪くて、心配になった。彼女も、精神的にも肉体的にも限界が近い気がする。とても無理をして家庭を切り盛りしている。たくさんの問題を一度に抱えて、命懸けの大変な時期に来ている。
子供たちの気配がしないなと思っていたら、隣の部屋でアニメに夢中なのだという。昨日あんなに騒々しく1人で3人分くらいの存在感を撒き散らしていたというのに、子供とは不思議な生き物だ。
アニメが終わると、起きていることがすぐばれた。早速、子供がドーンと飛び乗ってきた。
「みとりちゃん元気になった?カレー一緒にたべたかったてん。しんどいん治った?」と訊いてくる。
「Hくんが眠らせてくれたから元気になったよ。ありがとうね」と言うと、3歳の彼は、にんまりと得意そうに笑った。私をちらりと横目で見てから歌うように「いいよ〜」と答えた。
自分の思いやりが私の回復に貢献したと知って、Hくんは、しばらく何度も私が元気か訊ねた。私が答える前に「Hくんがみとりちゃんを寝かせてあげたからね」と自分で答えて、嬉しそうにしていた。
上の子Aくんは、パジャマ姿のままでテレビを見ていた。
そのうち、恒例の兄弟喧嘩がまた始まった。昨夜の騒々しさの再来だ。
生き生きとしている彼らを見ているのが、私は好きだ。
それぞれに高機能広汎性発達障害、多動型ADHDの診断を受けているが、生まれたときから知っている私にとって、それらは彼らの性格、特性の1つでしかない。母親であるJの苦労を抜きにすれば、子供が好きな私にとっては、ユニークで面白いとすら思う。
私や私の弟達は、障害を持たずして生まれたが、親戚の叔父が言ったのには「全員、人形みたい」だったという。大人の前で表情もなく固く感情を閉ざして、ひたすらに行儀が良い私たち兄弟を見て違和感を感じたのだろう。
Jの子供たちからは、そんな怯えた様子が一切しない。
私はママであるJの友達であり、何か大人のような大人ではないような自分たちと同等の友達のようにも感じているようだ。警戒しない子供達を見ていると救われる。
遅めの朝食を全員で食べた。
Jが、熱い黒豆カフェオレを入れてくれた。きな粉の香りがする、優しい甘さのカフェオレだ。昨夜は何1つ食べる余裕がなかった私も、芳ばしいカフェオレの香りと子供たちの声で賑やかな食卓を前にすると食べられる気がした。
前日に買ったパンを少しずつ口に運んだ。気がつくと全部食べていた。
見れば四人全員が違うものを食べている。それが何となくおかしかった。以前一緒に遊びに行ったときと同じ、ばらばらの個性、こだわりがある。「発達障害」と呼ばれようとも、彼らに当たり前に馴染んでしまった私には、やはり障害には見えない。
上の子がゲームをしている間、下の子Hくんとボールで遊んだ。ゴム製のボールは、サッカーをするのに丁度良い大きさだ。サッカーなのか、単なるボールの奪い合いなのか分からない激しい攻防戦で楽しかった。心から笑った。ボールを奪っても奪われても、大はしゃぎで笑い続けるHくんを見ているのも楽しかった。私は、子供が好きだ。子供と遊んでいると色んなことを忘れられる。この子たちの小さな身体のどこから出てくるんだろうと不思議になるくらい、無尽蔵のエネルギーを持っている。笑い、泣き、怒る、感情のエネルギーの純度が高くて動物的で羨ましい。
Jも、いつも子供達に考え事を奪われるようで、私に「考える暇ないやろ?」と笑って言った。合間に、仮面ライダーやアニメを子供達と見た。1人暮らしなら見ることがないチャンネルだ。ストーリーも設定も分からないけれど眺めていた。
それからまた兄弟喧嘩が始まり、ついに怒ったJが子供達を叱っている横で、ぼーっとテレビを見ていた。
すぐに調子に乗ってしまうのが子供達だ。
叱ることができるのは、彼らの将来を考えてでないと出来ないことだなと考えた。ただ怒鳴って威圧して子供を黙らせる方が親は楽だし、子供の言い分など聞かず、何がどう悪いのか説明せずに断罪する方が、やはり楽だ。
何がどう悪いのか、きちんと叱れるJを見ていると、こんな母親でいたいと思う。
J達が出かける時間、一緒に家を出た。
駅までの道を歩いた。Aくんが「内緒やで」と、こっそりハイチュウをくれた。Aくんの目に、私はどんなふうに映っているんだろうなぁと不思議な気持ちになった。私の子供時代、こんなふうに大人と接した経験があるだろうか。何の記憶もない。
自転車の後ろに座っているHくんは、こだわりが強い。今は、もっぱら私の体調を訊くのが彼のブームらしく、「みとりちゃん元気になった?」を繰り返す。「Hくんのお陰だよ」と言うと「いいよ〜」とまた歌うように答えた。得意げな顔が子供らしくて良い。
駅前でお礼を言ってJたち三人と別れた。
薬が抜けた素面で電車の乗り換え図を見る。よく分からない。
結局、二度乗り間違えて、えらく時間を食った。
自分の家の最寄り駅に着いて地下から地上に出ると、日が傾き始めていた。
数日前に履きなれたと感じたパンプスが、足を窮屈に締め付け痛い。無感覚な身体に、感覚が戻ってきている。家に帰りたくない。
文鳥たちがどうしているか気になって仕方ない。
でも、帰りたくない。あの部屋には、私しかいない。1人になりたくない。
パソコンにも向かいたくない、ブログも書きたくない、自助グループも治療も企画も何もかも、関係ないどこかに消えてしまいたい。
家の方角に目をやれば、空が蜂蜜を垂らしたように金色に光っている。死とは蜂蜜のように甘いと最近そればかり考えていることを思い出した。
生きているのは義務だ。生かされているモルモットだ。生きていたくない。今日から、どこでどう生きていけばいいのか、少なくとも今この瞬間、生きていたくない。
蜂蜜色の空に比べれば、街路樹の銀杏の葉は随分と色褪せて見えた。
バッグの中で携帯が振動し、友達からメールが届いた。泣きながら読んだ。
家に帰らなきゃならない。
帰りたくなくても向かうのは自分の家しかない。
目的地まで遠ければ遠いほど幾許か救われる。往生際悪く家を素通りし、スーパーに寄って飲み物だけ買ったが、観念した。帰るしかない。
文鳥たちは無事で元気だった。ほっとした。しかし、水が干上がっていて、エサも残り僅かだった。
すぐに水とエサを変えて鳥かごから出してやった。一晩冷え切っていた部屋をエアコンで温める。
むくは、水浴びをした後、私から離れようとせず、ももは書斎の巣箱にこもって歌を歌い始めた。
文鳥たちは、エレベーターの稼動音を覚えている。エレベーターが動くと、私が帰ってきたり、誰かがやって来ることを知っている。私が不在の間、そうしてエレベーターの音を聞く度に私が帰ってきたんじゃないかと呼んでいたのかもしれないなと思った。
助けてくれた友達の一人と電話で話した。
私の状態や生活は、ブログに書いているのが全てじゃない。書ききれるわけがない。追いつくわけがない。辛うじて拾い出して書いている。そのことが分からない人も読んでいる。考えると眩暈と脱力に襲われた。それでも書いていくことを私は続けるんだろうか。
月末にN氏と会うんだよと話した。そういえば、死んでしまったら私は彼とも会えなくなるところだった。苦しいとき、なぜそんな大切なことを思い出せなくなってしまうんだろう。
彼の話をネタに電話口で好き放題話し、友達と一緒に笑った。自分が戻ってきた気がした。でも、頭の中には、水を含んだ砂がギッシリ詰まっているようで、くたくたに疲れていた。
私が生きていられるのは、関わり励ましてくれた全ての人のお陰だ。
救急の人も警察の人も、一秒でも1人で部屋にいられなかった私の横にいてくれた、それだけで私の命が繋がった。その救急車を呼ぶと決断してくれた友達Jには、感謝しきれない。
あの日、あのまま1人きりだったなら、私は頚動脈を切っていた。
死とは、逃避なのだろうか。それとも絶対的支配力を持つ現実に、唯一仇なす方法なのだろうか。
袋小路に閉じられた現実や、無力な自分や、コントロールできない怒りや音を立てて崩れていく決意や覚悟、何もかもに一瞬も耐え切れず、憎しみを全て自分自身へ向けずにはいられなかった。
私の命は、いつも人の中で断ち切られ、人の中で繋がり存えている。その目まぐるしい繰り返しの中で、うっかり私が死ぬことはないのだろうか。偶然生きているように、偶然死にはしないのだろうか。
以前の日常と少しだけ変わったことがある。絶望の色が混じったまま、消えなくなった。
書くことも、人と繋がることも、治療することも、行動することも、絶望が入り混じったままで、日常が朝夕の濃淡を越えていく。
心の病気、
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境界性人格障害 | comment(3) |
ある方へのコメント返信ですが、記事として転載致します。
もっと纏めてからのつもりでしたが、この考えは今後揺らぐことがないと確信しましたので、とりあえずアップします。
番組についての私の意見は、別記事にします。
番組は私にとって過ぎたことではなく、あくまでようやくのスタート地点です。ここから学んだことを次へ生かすべく、考え続けています。思考に沿って、記事に換えていきます。もういいじゃないかと思われる方は、読まずにスルーして下さい。番組が1つ放送されたからといって、当事者の苦しみが伝わるわけはありません。無理解の家庭で育った私は、甘い期待は一切持っていません。
私が一患者として出演させて頂きました番組 TBS報道特集NEXT「自分を傷つける女たち」(境界性人格障害)へのご意見、ご感想は、番組ホームページ、またはTBSテレビ局へ直接お寄せ下さい。世論が動くとき、それは一個人が行動したときのみです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以下、コメント返信を転載)
申し訳ありませんが、私は「ファン」は一切いりません。
行動し協力してくれる者のみ信頼します。
あなたがテレビに文句があれば、あなたの実名でテレビ局に訴えればよいことです。
私は、私の立場でメディアと関わっています。
「病気への理解を広げたい」と真剣に考えれば、視聴率重視のテレビに乗らなければ、ちまちまとブログを書いていたところで死ぬまでに到達できません。私は博打に出たのです。そこのところを、あなたは私という人間を侮っていらっしゃる。
身を切らせて骨をたつ、それすら失敗するかもしれない信用ならないメディアに、私は乗ったのです。同時に自助グループやサイドブログ、今新たな企画も立ち上げていますが、ごちゃごちゃと口先だけで私をご自身の理想像に仕立て上げてらっしゃる暇があるのならば、あなたが行動できることをなさってください。
それは、私のブログの更にはコメント欄という小さな場所でやっていたところで誰も相手にしないのです。少なくとも私は不愉快です。
N氏への信頼どうこうの前に、私がどういう目で人間を見て接しているか、あなたは実際私と会ったこともないのに「元の美鳥さんに戻ってください」とはどういう意味でしょう。私を実際に知る友人は、矛盾ない私のこれまでの軌跡を知っていますし、今の私の着地点は、いまだ記事にはしていない。敢えて全く書いていません。
言葉という狭義で誤解されやすいもので中途半端に発信されたものだけを全てと鵜呑みし、私のリアクションを待たずに次々と熱っぽく一人語りされていますが、一度頭を冷やして出直してきて下さい。
あなたは私をご存知ない。
私は相手が誰であろうと、生意気です。会えば分かるでしょう。
ちなみに、あなたが書かれたプロデューサーがどうのこうのですが、そのようなこと知っております。
しかしあなたは、あの撮影がどれだけの期間でどういう経緯で行われ、何がカットされ、私がどう意見しどう考えが変わってきたのか、何も知らない。知っているのは私のみです。
無理解に理解を訴えることは、馬鹿げた行為に近いです。私の家庭がそんな家庭ですから、私が過剰な期待や信頼をもってメディアに露出したなどと考えるのは愚の骨頂です。私は馬鹿ではない。そして、口だけの臆病者でもありません。
あなたが訴えたいことは、あなたが顔をさらして大衆の前で訴えればよい。私に対して意見するものではないことにお気づきでない。
私は、大衆に向けて今回の番組で訴えました。その際に覚悟したことは、あなたのような「メディアなんて信用ならない。テレビはクズだ」という安易なメディア批判のみに終始する方達が含まれていることを想定していました。
私も同じ考えでしたから、その感覚は重々分かりますが、納豆といえば納豆に飛びつき、バナナといえばバナナに飛びつく情報に無防備で無責任な大衆こそ私は病的に見えます。
信用するに足ろうが足るまいが、ブログを書いているだけでは伝わらないのです。こうしている間にも患者は死んでいく。真剣に理解を広げたいと考えたとき、一か八かでメディアに乗らない限りは、当事者の小さな声は埋もれて消えてしまう残酷さに、あなたは直面したことがあるでしょうか。私は常に絶望し続けています。
あなたが本当に当事者の意識を持ち、真剣に目的に向かい行動しようとしたとき、果たしてメディアなんてクソだ、という一言で片付くでしょうか。
私の覚悟とは、誰を信頼するでもなく、私が自分で判断したことの全ての責任を取る、という覚悟です。
N氏がどうだとか関係ありません。確かに彼とは交友がありますが、誰であろうと途中で見切れる程度の低い人間性の友人は、私は切り捨てます。実際、そうしてきました。今後もそうでしょう。彼は私の審査を1年通過し続けている。それだけのことです。もっともっと長く私のそばにいて、行動し支えてくれる友人もいる。行動しない口先だけの人間はいりません。よって「ファン」もいりません。
理想化するのみで私に何がしかの期待をし、自分は動かない、私は私、あなたはあなたであるのに、あなたはご自身がなさるべきことをすれば良いだけではないのですか?
N氏とは意見を交わしています。私を報道したいのであれば、どこのメディアでも構いません。その都度問われるのはメディアの体質ではなく、究極は私が何をやりたいか、どんな障害があってもそれらをうまくすり抜けてどう発信するか、自己責任のみです。
あなたが書かれた組織図のようなもの、今回の撮影とは質が異なります。TBSで放送されるからといってTBSが制作するわけではない。企画そのものからして、そうです。
「テレビメディアほど信用のならないモノは無い」と書きましたが、同時に「無理解、無関心な傍観者ほど信用のならないものは無い」と同義です。
メディアとは、発信する者と受ける者相互の作用で生み出される文化です。
受け手が愚痴ってばかりいては、メディアの質は下がる一方です。行動しなければ、報道も法律も政治も福祉も、何も動かないのです。主体的に関わらざるを得ない、絶望も失望も引き受けて行動してこそ、はじめて世論が動くのです。
私が顔をさらし、自分の最たる恥部、症状をすべて曝け出したのは、「普通の人たち」の鈍感を突き破って何がしか訴えが届けばとの信念、その一点のみです。
私が最も信じるのは、諦めない私自身と、こんな私を支え共に行動してくれる有志たちです。口先だけの批判、決め付けてそこで行動を止めてしまう人たちもいりません。N氏が、「もうこれでこの件は報道しない」と口にしたなら、私は彼を殴っていたでしょう。実際、私はやる女です。ボーダーであろうが、彼をターゲットに一時期理想化していようが、私の強みは命懸けで病気への理解を広げたい、その一点が決して揺らがない、何ものも優先するという本能です。私は、行動しない人間はいつでも切り捨てる。
行動すれば、あらゆる矛盾や失敗、挫折、無理解、誤解に衝突します。私が主催する自助グループなど、一回目で私は100点満点中10点を自己採点しました。私は完全ではない。それどころか不完全で、あらゆる人に迷惑をかけ、支えて頂いて発信できている。10点であろうが、始めたものは続けます。次は30点取れれば良いほうかもしれません。恥をかく前にやめたほうが楽です。
それでも、その場で発信し続けなければ何も変わらない。
無理解への覚悟の上に、報道も私も作品も何もかもが存在します。
責任を取るとは、行動することです。
行動するには、最も効果的な方法で、限られた自分の命、時間をいかに有効に使うかに知恵をこらすことです。
愚痴を言っている暇はありません。
メディアの功罪、歴史は私も多少学んでいます。知った上での覚悟と、知らない上での自暴自棄は違います。
私は全ての材料を揃え、覚悟して博打に出ました。
この私にこれ以上意見されるのは、筋違いです。
あなたが何かあの番組から感じたのであれば、テレビ局に伝えてください。対等に話ができる立場にあなたが立とうと努力してください。
腐れていようが何だろうが、ちっぽけな自分の声に耳を傾けてくれるプロは、殆どいません。それでも期待し失敗覚悟で行動しなければ、泣き言だけで終わります。
ボーダー当事者だけでなく、そのご家族がみればあのODやリスカのシーンは「うちだけじゃないんだ」という救いになったでしょう。病名すら知らなかった方は、誤解したかもしれません。医療従事者が見た場合、自分ならまだ対処法を知っていると思ったかもしれません。それも全て、テレビ局に寄せられてはじめて実際の声となり、次に報道されます。
あらゆる立場の人間が、テレビを見ています。感じること、考えることは様々です。
まだ記事にしていませんが、私は数日前、うちを偶然訪れた電力会社の方に病気をカムアウトし説明しましたが、ボーダーがどうのという以前の問題でした。精神科と聞いただけで、そこから説明を要するほどに世間というものは無知なのです。
メディアは、そういったまるで無知な大衆に向かって影響力が強い分、それはうまく利用すれば可能性に最も近い。放射状に発信できるのです。
ファンは、いりません。理想化も懲り懲りです。
私は、ただの一人の人間です。
同じく、1人の人間として、どんな立場にあろうが何病であろうが、何の仕事をしていようが、目的を同じくして行動する人間のみ私は信頼します。 共感を寄せてくださり、読み続けてくださる方に深く深く感謝します。
私に向かってではなく、私を越えて外側に発信してください。
私があなたの理想像を引き受ける義理はありません。
私の覚悟の深さを、あなたは実感できていません。浅はかな判断で身をゆだねるほど、私は甘い人生経験はしてきていません。裁判も経験し、法律の不完全さにも何度歯がゆい思いをしてきたか分かりません。
それでも諦めません。
矛盾も失望も誤解も引き受けます。
私も、矛盾や無力や誤認する、1人の人間だからです。
今後コメントされるのであれば、私への理想化をやめて下さい。私が感じたこと考えたことを否定し意見されるのであれば、それはもう私との対話ではありません。ご自身の価値観を私といういれものに注ぎ込みたいだけです。
私に身分を明かすのではなく、テレビ局に身分を明かし、意見して下さい。私に何がしか訴えても、私はあなたのかわりにはなれない。匿名に隠れて意見しても何も通じないことを、あなたはご存知です。でしたら、メディアに向けてこそ行動すべきです。
私は、そうしました。
今後も、変わりません。
2008/11/21 09:08 | 美鳥
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境界性人格障害 | comment(11) |
カッターナイフを太腿に突き刺す。
二度、三度、四度目で切り裂きたくなるがやらずにいる。
布越しに刺さる刃は痛いだけで、さほどの傷を残さない。
この自傷行為は、7〜8年前の私がやっていた自傷の一つだ。切腹も同じく。リストカットやODじゃなく、自分をミンチにしたがるのも同じく。時間が巻き戻されたかのようだ。
しかし、あの頃と違うのは、今の私は失語症を克服し言葉を手にしていること。
書いて伝えることだけは、絶対にやめないと決めていることだ。
昨日は、3歳の頃の記憶がフラッシュバックした。それが自傷のきっかけになった。またODめいたことをやらかしそうになった。支えてくれる友達のことを思い、裏切るようで出来なかった。
泣き喚いて、太腿を刺した。
ひととき記憶が途切れた。ネットショップからメールが来ていて、インドのお香を私が注文したらしい。ご注文ありがとうございましたのメールだ。脱力した。
長袖一式は、やはり見つからない。捨てられたのか。私しかいないこの部屋で「捨てられた」と表現することがおかしいのか。私が捨ててしまったのだろう。
希死念慮が酷い。
些細なことがきっかけで涙が止まらなくなり、嗚咽になり、獣のような咆哮、絶叫に変わり、死にたい死にたいと部屋中をぐるぐると歩き回った。
目が外ばかり見る。
飛び降りたい、死ぬのも死ねないのもどちらでもどうでもいい、飛び降りたい、とにかくこの体を形を留めぬ程に滅茶苦茶にしたい。
そればかり考える。
今日は、本当は色んなことをやる予定だった。
一つだけこなした。後は悉く不可能だった。
些細なメール一つで、また死にたい死にたいの錯乱状態だった。
泣き喚いたかと思うと、ふと正気に戻ったりした。
ゴミを捨てに、夕方、外に出た。
飛び降りようとしている私の部屋の五階はどんな高さだろうか、と下を見てみる。
エレベーターで下りて、今度は下から見上げてみる。
硬いコンクリートの駐車場から見上げれば、吹き抜ける5階まで続く壁。
吹き抜けた上には、空だけがあった。
今日の空は、雲ひとつない。
何もない空は、ときどき憎しみを想起させる。
私の体中を駆け巡る、何者かへの怒りや失望、絶望、悲痛、孤独、何もかもに肩透かしを食らわせて、空は一枚の青い板のように無機質だ。
我が物顔で当たり前の顔をして、空は、私を世界に閉じ込めている。
あそこから飛び降りて、ここに落ちるのか。
足元のコンクリートに目を落した。
部屋に戻り、カメラを手にまた同じ場所に戻った。
コンクリートの上に立ち、最上階の上、憎い空を見上げた。
自由とは何だろうと考えた。
自由とは、欲しいものを欲するままに手にすることだろう。今私が欲しいものは何だろう。
今、この瞬間、死ねたらいいのに。
生きることは曖昧に許され続けて今日も明日も生きているのに、なぜ死ぬことは許されないのか。認められないのか。認められないのに、なぜ私はこんなに死に憧れる瞬間を幾度も幾度も繰り返し、逃れる術を持てずにいるのか。
死を希求することが私を支えてくれる大切な人を裏切ることになるとか、あの人を、この人を、その人を悲しませることになるとか。
苦しいだけ。本当はそんなことを考えたくはない。
死だけが私の望みを叶えてくれる。
成就する。
死に憧れ、甘い死に陶酔し、死への夢想で安らいでいる。
認めても良いのではないかと、ふと考えた。
今この瞬間、死がこの世で最上の甘美。
これが唯一の真実。
なのに不謹慎というだけで、なかったことにするのか。
こんなにも死に憧れるのに。
甘美で醜く爛れた私の死体が今ここにあれば、私は安らいで安らいで、もう何もかも満ち足りて、おなかいっぱいおっぱいをのんで、すやすやと眠る赤ん坊のように満ち足りる。
今、この瞬間、死ねたらいいのに。
雲ひとつない空の下、日が傾き始めた夕刻、私は空想の世界で死んだ。
私の死体を眺めた。
数メートル四方の冷たいコンクリートの上、カメラを片手に歩き回り、私は、自殺した自分の死体検分、現場検証をやった。
私は空を飛んで落下し、地に叩きつけられ内臓を破裂させ、耳や鼻や口から血を流し汚物を撒き散らし、コンクリートの上でひしゃげて死んだ。
私は、ここで死んだ。
ゆっくり深呼吸した。
清浄な死が、この場からかき消えてしまう前に。
肺の奥深く吸い込んだ。
爪先から足、膝、太腿、腰、胸、腕、手のひら、指先、爪、髪、頬、まぶた、睫毛の先まで、死が充ちた。
甘かった。
冬の陽は移ろいやすく、いつの間にか夕刻の陽射しは蜂蜜のように甘い。
私は、私の自殺現場でシャッターを切った。撮りたいものが明確だ。夢中で撮った。
珍しく、私らしい写真が撮れた。
もう少し生きられる。信じた。
一歩ずつ自分の足で階段を上り、5階の部屋まで戻った。
写真は後日アップ予定。
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