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2008/05/06 (Tue) 自殺直前日記 

※自殺についての記事です。自己責任で閲覧ください。


1992年 5月24日
24歳で自殺した漫画家 山田花子の手記 「自殺直前日記」
彼女が、椅子に乗って11階の高層ビルから投身自殺したのは、
統合失調症で入院していた病院から、退院した翌日だった。

自殺直前日記 完全版 (QJブックス)自殺直前日記 完全版 (QJブックス)
(1998/09)
山田 花子

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私は、偶然、一冊だけ、山田花子の作品を持っている。
「花咲ける孤独」というタイトルだ。

彼女の漫画は、彼女本人が手記に書いているが、
「ドキュメンタリー漫画」「レポート」「観察日記」「実況中継」だ。
彼女の身の上に実際起こったことを、物語にして、ただ描いてある。

私の漫画には「言いたい事」なんかない。
(ただ「こんな奴がいる。こんなことがあった」ってことだけ)。

商業路線とは全く無縁のところで、本当に自分に見えている、
感じている「本物の世界」を描きたい。

                 ? 山田花子「自殺直前日記」 ?



力強い黒々とした描線。
登場人物は、顔のどこかが歪んでいて、全員どこか醜い。
オドオドとしていつも虐められる主人公は、
何をやってもグズでノロマでブサイクだ。
大勢に囲まれて突きまわされる主人公は、
いつでもビクビクしているか、ヘラヘラしている。
時には、幼児向け漫画のような単純化された線で、
性器を醜くグロテスクに描き出す。
テーマもクソもないストーリー。
ただ、生まれついて強者たる要領の良いいじめっ子と、
生まれついてブスでノロマで白痴のいじめられっ子との、やりとりだけだ。
いじめられっ子の主人公は、あれやこれやと反論してみたり、
媚びてみたり、へつらってみたり、一生懸命努力したりするのだが、
全ては嘲笑と冷笑を誘うばかりで、生きているだけで、ただただ惨めなのだ。


山田花子が自殺する24歳まで、
約20冊のノートにびっしりと書きつづっていた日記を
遺族である彼女の父親が纏めた本、
それが、この「自殺直前日記」だ。


表紙に踊る幾つもの言葉は、実際に彼女が日記に綴ったものだ。

「夢を売る奴は みんな詐欺師」
「私の霊波が自分の霊並より弱いことを嗅付けて(付込める)寄ってくる」
「誰が何の為に私をこんなに苦しめるのか?」
「私は厄介者。」
「最底辺に生きる私には望める幸福なんかない」
「私は運が悪い。」
「男の顔が化物にしか見えない」
「宝物はゴミ、王子様はコジキ、友達はバケモノ。」
「「あれっ!」何で、私は今こんな所にいるんだろう。」
「私は出発点で負わされた「定」に従って、何時、どんな場でも
失敗して周りにバカにされる運命になっている。」
「人間のままで幸せになりたい。」
「豚小屋発 犬小屋行の理論」
「この世は「自殺は罪悪」という「常識」を作っている。」
「苦しいよォ、助けて(ムダ)」
「絶望するなら死んじまえ。人生なんかどうせくだらない。」



どれも、数年前まで私が実際心の中にしまいこんでいた思い、
実際、同じ言葉を口にしたこと、何度あったかしれない。
最初の1ページ目から最後のページまで、
「自殺直前日記」は、私自身が書いたもののような気すらした。
あまりに私そのものだからか、フラッシュバックすら起こらなかった。
今日死のう、明日死のうと思っていた山田花子の心の叫び、
それは、そっくりそのまま数年前の私の心の声だった。


本書には纏めると、以下のような心情が綴られている。

ただひたすら、世の中は嘘っぱちで弱肉強食で、
自分は落ちこぼれで前世のカルマを背負って延々生の苦しみが続くが、
自殺したらカルマがまた深くなるから自殺もできず、
せめて処世術を学ぼうと必死になるが、なればなるほど周囲から嘲笑され、
たまにうまくいってもプライドが極度に高い自分が客観的に自身を嘲笑したりして、
とにかく雁字搦めのループ、ループ、ループ、苦しみのループなのだった。

うまく生きてる奴は皆嘘っぱちで汚くて、でも自分はもっともみっともなくて、
男は皆、女を道具としか思ってないくせに口先だけ上手い
決して心許してはならない生物。
だけど一人でいると寂しくて、人の中に入るといたたまれなくて苦しくて、
ああ、死にたいと思うけれど、死ねないから仕方なく生きていく。
とにかく業が怖い。カルマが怖い。
あらゆる人の中に、自分のカルマが宿って自分をいじめにかかって、
どこまで逃げてもカルマが追いかけてきて、
発狂するか自殺するか耐えるか、どれかしかないループ、ループ、ループ。


常に、自分の感情に客観性を求める。
徹底的に、自身を俯瞰し、高く高く冷徹な感情のない神の視座から
自身を眺め、嘲笑し、罰を下し、強者か弱者か厳然に裁こうとする。
彼女は、誤魔化しを許さない。

日記に、独り言を書きとめるが、すぐ直後に自身で反駁する。

私って不幸!(甘い、ワガママ、屈折)。
幸福なんてどこにあるの(空しい)。
身近な楽しみさがしてごらん(クサイ、自己陶酔)。
生きていれば幸せになれるかもしれない(甘い!)。



彼女の父親が、あとがきで書いている。

山田花子は自分を苦しめるいじめっ子を軽蔑していた。
しかし、彼らを軽蔑することで、実際には、
彼らにどーしてもかなわない自分自身のふがいなさを
ごまかしている事に気づいて一層惨めになり苦悶した。
山田花子はまた、いじめっ子同様、自分自身の内面にも、
冷酷さ、残酷さ、差別意識等がある事に気付いて苦しんでいた。
山田花子が「自分自身の内面にある冷酷さ、残酷さ、差別意識」と言う場合、
それは第三者からみれば、
ほんのちょっとしたエゴ、保身、意地悪程度のものであった。
しかし、繊細でナイーブな山田花子にとっては、
それが耐え難い苦痛になり、激しい内面の葛藤の源になった。



必死で自分を位置づけを理解しようと、ノートにひたすら、
弱肉強食図を書き、自分を位置づけ、こだわり、願望を持てば失望し、
結局自分も自分を嘲笑してしまう、地獄のループ。
冷酷な神の視座からの、終わりなき自分裁き。



こういった自分裁き、自分の感情への反論は、私の場合、
所属していた宗教団体の教義が後押しした。
「因果応報」「自業自得」は、当然の教義で、
現世での苦しみが深ければ深いほど「過去世からの業が深い」とされ、
対人恐怖症を相談に行った先々で、
「あなたは、一生孤独だという業を背負っている」
と幹部、信者仲間から言われ、死ぬしかないという決意への後押しになった。
孤独であることも、あなたのせいだ、目に見えぬ業のせいだと言われれば、
知らない誰かとすれ違っただけでパニックを起こし、
号泣と震えと絶叫が止まらなかった私には、死刑宣告に等しかった。
「あなたが出会う嫌な人達は、あなたの業を映しているだけ」と言われた。
「あなたが変われば、全ては変わる」とアドバイス紛いに言われたが、
私は、無力な自分ひとりでは、変わることは出来なかった。
あてもなかった。
つまり、
「私が変われなければ、全ては死ぬまで変わらない」のだ。
そして、変われるくらいなら私は苦しんでなどいなかっただろう。
生きていくことは、根性論で語れるほど、甘くはないのだ。
いつまで経っても私は、無力でブスでゴミでバカでクズだった。
私が、私から逃げられるわけもなく、私は死ぬしかなくなった。

ループに浸かりきった私は、世界が恐ろしかった。
魑魅魍魎の人間達、しかし表面は綺麗で明るい人間達を
憎んで憎んで、心の底から憎んだ。
「死ね」が私の口癖だった。
世界中に向けて罵り、それ以上に私自身を罵った。
明るくも綺麗でもない私という透明な存在。
それどころか、
人から嘲笑される私、からかわれ馬鹿にされ、セクハラを受け、
罵られても、無言で耐えるか、へらへらと笑うか、媚びるかしかない私。
魑魅魍魎よりも無力で生きる価値のない私。
死にたいのではなく、死んだほうがましだった。
このままじゃ来年あたり私は死ぬだろうと予感していた自分の勘も、
あながち大袈裟ではなかったと、山田花子の手記を読んで実感した。


思考のループに追い込まれ続ける悪循環は、
人間を、じりじりと確実に死へ導いていく。

どこかで「いい人」を脱して、自分は傲慢なる罪人なのだと開き直って、
自然憎しみの湧く相手には怒りを表明し、笑われても胸を張る愚かさが、
自我確立には、やむをえない必需品だ。
山田花子は、ついに、そこには至らなかった。

統合失調症発症前に手を打つことができれば、
単なる対人恐怖症で済んだのかもしれない。
山田花子の手記からは、成育歴に問題を負っていたことをうかがわせる。
生育歴、家庭環境と対人技術の関連性についての研究が進んでいれば、
周囲からの理解を得られたかもしれない。
統合失調症という言葉はまだなく、「分裂病」と呼ばれていた時代の話。
今、山田花子が生きていれば、自殺せずには済んだかもしれない。
しかしやはり、死しか選ばなかったかもしれない。


希死念慮に雁字搦めになっていた私のパラレルワールドが、
この一冊、一行、一行に重なって見えた。

山田花子の言葉の向こう側に、私自身が見えた。
懐かしかった。




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自殺 | comment(18) |


2008/01/22 (Tue) 自殺は迷惑か

よそ様のブログで、なんじゃそら、というコメントを見つけた。
とても面白いブログなので、息抜きに通わせて頂いているのだが、
ブロガーさんが、ある日、電車の人身事故について書いた。
いつも明るい調子とは違い、ショックを受けた様子が伝わってきた。
そこに、ある人がつけたコメントが、こんなものだった。

「物凄く冷たいのかもしれませんが、故意の人身事故って、
色んな人に迷惑をかけるのだから、勘弁してほしいです。
生きたくても生きられない人がたくさんいる中、
自ら進んで永遠の安息を選ぶのなら、
それなりに人に迷惑をかけないようにしてもらいたいですよね」


私は、爆笑した。
すばらしいコメントだなぁ、と惚れ惚れした。すばらしい。
こんな完璧なコメント、そう滅多に出会えるものじゃない。
この手の人間が必ず言うキーワードを、
奇しくも全て備えた、パーフェクトなコメントだ。
冒頭に「物凄く冷たいかもしれませんが」と、
枕詞を決して欠かさぬ配慮も、また一流だ。
「生きたくても生きられない人がたくさんいる」
とは、この手の人たちの共通の教科書にでも書いてあるのか。


他人の生に頭が巡る位ましな状態なら、誰も死にはしないのだが。
いまだ自殺を「迷惑」といえる方たちのツルツルなオツムの中には、
綺麗なお花がいっぱい咲いてるんだろう。
さぞや「安息」で満ちているだろう。羨ましい。
こんな方には、一度ぜひとも自殺死体と対面して、
同じセリフで、自殺者に直接、大いに語って貰いたい。


このコメントを書いた誰かは、
自殺は全く自分と関係がないと高を括っているようだが、
自殺は、とても身近になった。
他人事じゃない世の中になった。
自殺者が毎年、増えに増えて、日本じゃ3分に1人自殺している。
実際、私の知人の中で、自殺した人は数人いる。
私の過去の恋人は、身内に自殺されてPTSDを抱えて生きていた。
私自身、一日中何とか自殺できないかと、それしか考えなかった。


その頃、私の仕事場の裏の駐車場が、
近所でも有名な投身自殺スポットだった。
現場に遭遇しないときでも、翌日、
飛び降りた人の身体で、破壊されたフェンスなどを、よく見た。
ブロックまで粉々に砕けていた。
それらの痕跡だけでも、私は、いつも言葉にならない衝撃を受けた。

そのビルが選ばれるには、理由がある。
人目に付かない階段で、自由に屋上まで上ることができ、
確実に死ねる10階以上のビル、そして、
裏通りに面した駐車場に、車があまりとまっていないからだ。
私の仕事場の駐車場から救急車で運ばれていった人たちの安否は、
翌日の新聞記事などで、知った。
自殺者の身元や年齢や当日の状況を読むだけで、胸が痛んだ。
階段入り口の防犯カメラから、時間も割り出される。
階段を上り始めて投身までの時間は、わずか3分。
九州から出てきた女子大生。
下着姿で朝に下宿先のマンションをふらふらと出て、
まっすぐにビルまで約15分ほど歩いて来て、
徒歩で階段を上り、3分後投身。
よく晴れた、青空の朝だった。
落下した場所が悪く、フェンスに一度直撃して落ちた。
そのために、直後は血まみれで、まだ息があった。
私が出社したとき、人だかりが出来ていた。
いまだに私は、
私の仕事場の裏で亡くなった人たちの出身地や経歴、年齢を覚えている。
忘れられない。


人の死は、すべて悲しい。
事故でも自殺でも病死でも老衰でも、悲しい。
そして人の死は、平等に重い。
私は、いつも思う。
命の平等は語られるのに、なぜ死の平等は語られないのか。


誰も心から自殺を望む人間なんていない。
本当に死が「永遠の安息」なら、今の瞬間にでも私は死ぬ。
心の病気のみならず、借金、不治の病、身体障害、老老介護、
生活苦、失恋、職場の人間関係。
懸命に生きていれば、死にたくなる理由には困らない。


苦しんで思いつめ、孤独で心の中に誰もいなくなったとき、
ちょっと背中を押されれば、ちょっと電車が走りこんでくれば、
思わず飛び込む、思わず飛び降りる、思わず首を吊る、
自殺とは、そんなものだと思う。
直前までは、誰もが何とか生きようと本能的に踏み止まっている。
生きることを本能とする生物だから。
しかし生きることが、苦しい。
一秒でも息をしていることすら苦しい。
苦しくて何度も発狂する。苦しいから、死へと背を押される。
生きようとして、死へ。苦しんで、死へ。
そうやって、少しずつ牛馬のように孤独に鞭打たれて、
死に追いやられるのが人間だ。
最後は、枯れ果てて干からびて、ぽとりと死ぬ。
センセーショナルな行為であっても、
自殺者の心は乾いて何の情動もない。
自分で「進んで」死ねるほど、死ぬことは楽じゃないし、
人間の意志は、万能ではないのだ。


人が死んだことを「迷惑」だと、片付けられる人間は、
なぜか、生きている人間にも、平気で「迷惑」だと言える。
自殺者のお陰で電車が遅れて、
会社に遅れて「迷惑だ」と言ってる位なら、
ああ、オツムがツルツルなんだね、と笑って一蹴できるが、
死に鈍感な人間は、人の生にも鈍感だから、嫌いだ。
実際「生きたくても生きられない」ような弱者を前にしても、
この手の人間は、きっと、こう言うのだ。
「物凄く冷たいかもしれませんが、
人の世話になって生きてる人って、迷惑ですよね」と。
病気でやむなく休職していても、
「あなたに休まれて、迷惑」「会社にしがみつかれて迷惑」
「暗い顔されてたら迷惑」「存在自体うざい」「給料泥棒」
「休めるなら私も俺も、病気になりたいよ」
平気で言う。


「物凄く冷たいかもしれませんが」と念入りに前置きしようが、
何だろうが、自分で前置きしているとおり「物凄く冷たい」のだ。
自覚がありながら、言いたがる。

こんな笑える人間が世迷言吐いても、
思想・言論の自由なんてものが、守ってくれる。
自殺者の思いは、守られない。
死んだら負けだと、こういう人間の言を聞くにつけ思う。
そんな甘っちょろい世の中だから、
私も大いに生きて、せいぜい遠慮なく毒づいてやろうと思う。



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自殺 | comment(19) |


2008/01/10 (Thu) 生者の特権

実家の庭が、好きだ。
土をいじっていると、とても心穏やかになるし、
驚くほど色んな生物が棲息していて、
虫も鳥もトカゲも蝉の抜け殻も、どれも命を感じて、面白い。


畑の管理と果樹は父の担当で、花などは母の担当、
剪定や草抜き、掃除は、私の担当になっている。
この間の暴力事件以来、自分のマンションで大半暮らしているので、
久しぶりに戻って、伸びた草を抜いていった。
風は柔らかくて、日差しは温かく、
前日に降った雨のおかげで土はふかふかと良い匂いがして、
草抜きは、とても楽しかった。
時折、ミミズが驚いたように土に潜り込んだり、
うっかり冬眠中の幼虫を掘り返してしまって、
土のベッドに返してやったり。
そのうち、目白が群れをなして柿の実を食べにきて、
大きな一羽のツグミが羽を休めにやって来て、
蜂は羽音を立てて色とりどりのパンジーにとまり、
ふと、聞いたことのない鳥の鳴き声が響く。
庭に、あらゆる命が営み、鎮座し、訪れて去っていく。
二本の足で立つ人間である自分が、どことなく不自由にも感じる。
庭に出ていると、小宇宙の渦の真ん中にいて地球を眺めているような、
不思議な高揚感に包まれる。


午後になって、父が苗木を二本買ってきた。
大きな実がたくさんつく品種のグミの木と、
ブルーベリーの木だ。
わずか30センチ程の木だが、最終的には私の背丈ほどになるという。
ブルーベリーを提案したのは、私だった。
ブルーベリーのジャムなんかは食べないが、
生のブルーベリーはすごく好きだ。
偶然、父もテレビでフィンランドの野生のブルーベリーを見て、
植えてみよう、ということになった。
あらかじめ決めた場所に、スコップで穴を掘って肥料を加え、
苗木を置いて、上から埋める。
木を植えることは、案外簡単なものなんだな、と思った。
うちには他に、柿の木、いちじくの木、7本のみかんの木、
山椒の木、そして松だとか、もちの木、さざんかの木、などなど、
他にも数え切れないほどあって、思えば木だらけだ。
中でも、食べられる実がなる木というのは、
やっぱり特別嬉しい。


ブルーベリーは、今年食べられるかもしれないけれど、
グミは2年後位になるだろうなぁ、と父が言った。
私は、瞬間、2年後に、
果たして父や母が生きているのだろうか、と想像した。
15年引きこもっている重度の強迫性障害の弟は?
そして、私は?

自分で自分の思考回路に、軽い衝撃を覚えた。
私の一時の口癖は「人間、いつ死ぬか分からない」だった。
以来、常に自分の死、人の死を考える。
何度も死の淵を覗き込んでいると、死というものは、
本当に気紛れで、生きている人間が考えているより軽く、
生と死の境界は、ほんの偶然で線引きされているような気がするのだ。
離人症や自傷、パニック障害、対人恐怖、原因不明の怪我、病気、
色んなものに背中を押されて、死へ、ふらふらと追いやられて、
そのまま気がつけば踏み越えてしまうような、
そんな感覚が今でも忘れられない。


人は必ず死んでしまうもの、と脳に焼印を押されたかのように、
強烈に、私は信じている。
自殺に限らず、病気や事故で、いつ死ぬか分からない。
この感覚は、生きていく上で重要なようであって、
でも時々、息苦しさも感じる。


ノイローゼで、意味不明なことを叫びながら、
頭を抱えて床を転げまわり、壁に頭を打ち付けて、
泣き叫んで暮らしていた頃、
私は、最初の文鳥、ももを飼い始めた。
最初から、文鳥の寿命を調べた。
6?7歳と知ったので、10歳目指して生きようね、と
文鳥のももに、よく話しかけた。
自分は明日死ぬかもしれないのに、ペットを前にすると、
可愛くて、10年生きようね、なんて言っていた。
通じていたのか、彼は9歳になった。
無責任な愛情だったと思い返し、
けれど文鳥3羽を誰が幸せに飼い続けてくれるだろうか、という懸念が、
何度も自殺を思いとどまらせてくれた。


9歳になって、ももは飛べなくなった。
それはそれで、慣れると元気に走り回るようになった。
高い場所へは、人間に頼んで上がる知恵をつけた。
むくは、片目を白内障で失明した。
それでも、毎日食いしん坊を発揮して、
飲んで食べて、の生活をしている。
ももの妻きりは、衰えた夫をある程度理解し、
自立心をもつようになった。
以前は、ひとりでは遊びに行けなかったキッチンの隅だとか、
ガラスケースの中だとか、ひとりで遊びに出かけるようになった。
時間が、確実に過ぎていく。

文鳥たちが体調を崩すと、
彼らに孫のような愛情を抱き始めた両親は、とても動揺する。
もう死んでしまうのではないか、と思うらしい。
私は、死の力も信じるが、生きる力も信じている。
文鳥たちに、自分の子供のような愛情を感じている。
でも、いつ死んでもおかしくない、と私は冷静に考え、
出来るだけの看病をし、そして冷静にまた死の可能性も考えている。
なんだか自分だけ変な感覚に陥っている気がする。
愛情に関わらず、関係性に関わらず、
死ぬかもしれない、という気持ちと、生きるかもしれない、という気持ちが、
妙に50パーセントずつ、きっちり存在する。


数年前、祖母が末期癌で亡くなったときも、
私は宣告をすんなり受け入れ、祖母の死ぬ日に向かって、
冷静にカウントダウンしながら、祖母と一緒に出来る限りのことをして、
その日を迎えた。
母は、その感覚が分からない、と言って泣いていた。
近親者の死を、そんなふうに事前に覚悟して、行動できることが、
情が深い彼女には、不気味に冷徹に映ったようだった。


どこか不自然だと思う。
何かが麻痺してしまったのか、
本当に、これでいいんだろうか、と思う。
これが人間らしい感覚なのだろうか。
この感覚を、何という言葉で表せばいいのか。
命のありがたみ、重み、ぬくもりを知っているのに、
死神の意図が、まるで私の脳に電流となって流れこんでくる感覚。


植え終わったグミの木の根元をかためながら、
父は、満足げに「二年後には食べられるぞ」と言った。
幼く頼りない苗木を眺めて、もうその実を口にしたかのように
幸せそうに笑った。
私は、そうだね、と一応笑った。
2年後に、必ず実るグミの実を、
必ず口にできると信じられる父が、羨ましくもあり、怖くもあった。
2年後には、誰が生きているか分からないのに。
所詮、生きている者の感覚など、あてにならないのに。
私には決して言えない父の言葉。
けれど、それでも、言ってみたい言葉だ。

でも、私も例えば、
あなたは1年後に死ぬよ、死期を宣告されれば、
ああ、あの実を口に出来ると信じていたのに、
と、思わず口走るかもしれない。
そう考えると、私の頭の中を二分する、
生者と死者の感覚は、所詮、戯言にも思える。


2年後に誰が生きているのか、分からないけれど、
真赤に実った瑞々しいグミの実を想像してみた。
私の目の前には、やはり果実と同時に、
甘酸っぱい赤い実を際立たせるかのような、
真っ暗な漆黒の闇も見える。
赤と黒。
違うようで、似ている色。
どちらも、天上から俯瞰すれば美しく、
ときに魅惑的で、甘美で、狂おしい。
生も死も、元々同じ木に実る果実のようだ。


でも、私は今生きている。
まだ、生きていたい。
死んでしまったら、この世を生きる木の実は、
少なくとも味わえない。
味わえないことを、何度も死の淵に立つことで、私は知った。


だから、今から二年後、
あのグミの木が育ち、やがて実を結ぶ日に、
私も木のそばに立っていたい。
赤い血の一滴にも似た実を舌にのせ、
口中で弾ける酸っぱい果汁に顔をしかめ、
同時に広がる甘い果汁に歓声をあげ、
大切な人たちやペットと一緒に、
植えてよかった、美味しいねぇ、と
弾けるように笑ってみたい。



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自殺 | comment(10) |


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美鳥(みとり)

Author:美鳥(みとり)
被虐待サバイバー。解離性同一性障害、うつ病、対人恐怖症ほか色々闘病中。境界性パーソナリティ障害寛解しました。毎日の光と影を綴ります。生育歴・来歴・病歴・活動はこちらをご覧下さい⇒<はじめに Profile>

講演活動・ユーストリーム放送しています。
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