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2008/02/13 (Wed) なぜいじめはなくならないのか - イギリス -

BS世界のドキュメンタリー 欧米の教育現場から
『イギリス なぜいじめはなくならないのか』 
『カナダ いじめ撲滅プロジェクトの1年』
NHK教育 イギリスBBC制作

数日前に、偶然見た。
見たところ、欧米のいじめは、
日本のいじめとさほど差がないように感じた。
人間、いじめる心理というものは、結局万国共通なのかもしれない。
しかし、日本と欧米とでは、いじめに対する危機感の度合いが、
まるで違う。


欧米では、
数々の具体的対策を大人たちが考え、実際に実施している。
積極的だ。
比べて日本では、いまだに、
「ひどいですね」「つらいですね」「何とかなりませんかね」
「でも、大人の社会にもいじめはありますから、まず大人から・・・」
「いじめをなくそう!」
など、いつまでも何の役にも立たない論議ばかりを続けているように思う。


今、いじめで苦しんでいる子供がいるのに、
専門家二桁三桁集めても、いまだ具体的な対策を見つけられずにいる。
何らかの案が出されたとしても、日本特有のお役所気質で、
何も実施できないのかもしれない。
最新の新薬が、何年経っても認可されないように。

いじめられている子供が、
首相へ「いじめられています。助けてください」と送りつけた手紙。
あの手紙の存在も、
いつしか世論の移ろいやすい流れにのまれ、消えてしまった。
あのとき手紙を送った子供たちは、今どうしているのだろう。


番組は、二本連続で放送され、
イギリスのいじめの現場、イギリス政府の取り組みを伝えるものと、
カナダで、具体的にいじめ撲滅に乗り出し、あらゆる対策を施し、
実績をあげている学校の現場を伝えるものだった。


今回の記事では、イギリスのいじめの現場について、
番組で放送されたものを簡単にご紹介したいと思う。


・イギリスでは、20人に1人がイジメを経験している

・共犯・傍観などをあわせると、すべての子供が経験している

・現在、いじめを理由に不登校になった子供が9万人いる

・いじめにあう子供は、体中痣だらけになるまで殴られ蹴られ、
 階段から突き落とされて鼻を骨折するなど、いつ殺されるか分からない

・いじめを苦にした自殺する子供が後を絶たない

・臭い・デブ・死ね・毛深い・同性愛者、などと集団で罵る

・両親に話し、協力を得て学校に訴えても何の措置もしてくれない

・いじめの存在自体を認めてもらえない

・いじめを受けている子供が教師に相談しても
 「やりたい人にはやらせておけば、そのうち解決する」
 「いじめられても、あなたが反応しなければ解決する」
 「何をされても無視しなさい」
 などと言って、真剣に取り合わない。

・いじめられる子供は、あらゆる理由から
 「自分は生きている価値がない」と思うようになる。

・いじめられる自分のどこが悪いのだろうか、と考えてしまう

・あと数ヶ月耐えれば卒業できたのに、いじめに耐えられず自殺した子供がいる

・14歳の少女は、裸にされ校庭で跪かされ写真を撮られた挙句、
 写真をばらまかれ、自殺した


日本と、変わらない現場だと思った。
この救いようのない現実に、イギリスの教育関係者は、真剣に取り組んだ。
社会問題になり、政府も具体的に取り組むようになった。
いじめ被害者救済のための民間団体がいくつも出来、番組内で、
その具体的な対策と成果、問題点が描き出されていた。


続けて放送された『カナダ いじめ撲滅プロジェクトの1年』では、
一番成果をあげているという、ある学校のシステムが紹介された。
授業放棄する子供が増えている日本でも、かなり有効な手段だと思った。
こんな方法であれば、大人がいじめに積極的に関わり、
成果を挙げられると感じた。


この二つの番組を見るまで、
正直大人がいじめに対して出来ることは
限られているのではないかと考えていた。
残念なことに、今の日本では、学校という檻の中、
どうしてもたった一人で子供がいじめと戦わなくてはならない。
しかし、大人に出来ることは、まだかなり残されているようだ。


次回エントリで、カナダのいじめ対策と成果について、ご紹介したい。
心の病気を抱えたもの、その周囲の者にとっても重要な、
「怒り・感情のコントロール」としても、とても有効だと感じた。
是非、こちらでご紹介したい。



◇いじめ撲滅プロジェクトの一年 - カナダ - へ続きます。



番組紹介 NHK「BS世界のドキュメンタリー」
(リンクは、別窓で開きます。放送内容が紹介されています)

【シリーズ 欧米の教育現場から】 イギリス なぜいじめはなくならないのか

【シリーズ 欧米の教育現場から】カナダ いじめ撲滅プロジェクトの1年



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檻の中で生き延びる | comment(18) |


2008/02/03 (Sun) 愚鈍な羊 2

過眠傾向。
今日、夢の中で、私は成長した。
去年から、私の夢には外国人しか出て来ない。
知らない国、未来の国、存在しない国で私は生きている。

しかし、今日は、殆ど記憶を持たない中学時代の夢を見た。
いじめについて、考えたからだろう。
記事を書いていることもあるし、
奇しくもテレビでいじめ問題に関する
海外ドキュメンタリーを見たこともあるのだろう。
過去の記憶を持たない私は、私をいじめた人間を前にして、
必死で必死で記憶を辿り、
当時彼女たちに面と向かって言えなかった具体的な屈辱を思い出し、
一つ一つ、彼女たちに向かって叫んでいた。
糾弾し、怒り、部屋にあったあらゆる物を薙ぎ倒し、蹴り散らし、
気が済むまで暴れた。
こげ茶色のプラスチックの皿と、山盛りのフライドチキン、
青や黄色のプラスチックのゴミ箱、あらゆる物が散らばり部屋が
悲惨な状態になったのを確認して、私は部屋を去った。

私の耐えがたかった過去の一つが、夢の中で清算された。
今は、軽く鬱状態だ。
思い出した過去は、心にずしりと重い。
けれど、私は一つ乗り越えられるだろう。
数日経てば、そしてこれをカウンセリングで話すことが出来れば、
私は、やっと一つ、乗り越えられる。
やっと一つ。
けれど、大きな一つ。

少女期の体験の中のたった一つ。
今やっと、一つ乗り越えた。
なんて長い道のりだろうか。
そしてまた、何か肝心な記憶を忘れたまま。

◇愚鈍な羊 1

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

愚鈍な羊 2



中学にあがるとき、6人グループのうちの一人、
私と一緒にスケープゴートになっていた友人が、
私立の中学に入学して離れた。
残り4人と共に、私は、中学にあがった。
隣の小学校の子供たちもやって来て、彼らとは初対面だったが、
既に小学校で出来上がったグループは、さほど変わらなかった。
私は、4人と共に剣道部に入部した。
仲が良いと学内でも評判の部になった。

しかし、水面下では小学校時代と同様の食うか食われるかが続いた。
小学校時代に認知させられた交換日記は、
私の目の前で中学時代も引き続き彼女達の中を巡っていた。
そんなものを見ながら、中学生活を送っていると、
友達ってくだらないお芝居だとしか思えなかった。


ここからは、私が、夢の中で、
初めて思い出した中学時代のことを書こうと思う。

リーダー格の少女「I」は、中学に上がると目鼻立ちがはっきりして、
「かわいい」「美人」と、もてはやされるようになった。
彼女は、常にピンク色のものを身につけ、恋をしていて、
自分がかわいいことを自覚していたが、
褒められたときに激しく謙遜することも忘れなかった。
私は、小学校時代の彼女のしたたかさと狡さを知っていて、
更には彼女が、小学校時代、学校で公衆の面前、
自慰行為を頻繁にしているのを知っていた。
猿みたいだと思っていた。


だから、全ては茶番だという気持ちで眺めていた。
同時に、「かわいい」「きれい」だということが、
かなりの価値を持つのだということも、肌身で知った。
綺麗な容姿に、綺麗な心が宿るのではないことも、知った。
この事実は、少女だった私にとって、大きなカルチャーショックだった。
美しいものの中に、醜いものが詰っていることもあるなど、
子供の私は考えたこともなかったのだ。

そして、この時の体験が皮肉にも、
その後の自身を立て直すときの大きなヒントになった。
鬱であろうと、悩んでいようと、いかに自分が醜い心を持っていようと、
外側に手を加え、それなりの格好をすることで、
見せたい自分を他人に見せることができる。


Iのみならず、中学時代は皆誰かに恋をしていた。
私も、例外ではなかった。
小学校時代から好きな男の子がいた。
サッカーが上手く、
遠征試合で海外に行ったりするような男の子だった。
放課後、彼が練習するのを眺めたり、ラブレターを書いたり、
誕生日やバレンタインにはプレゼントを贈ったり、
皆がやっているように、私もそんなことで浮かれていた。


あるとき、私は体調を崩した。
でも、学校を休まなかった。
その頃、とっくに離人感が強烈だった私は、
自分の体調管理ができなかった。
また、両親が教育熱心で
学校を休むなどとんでもない、という考えだったので、
無理をして登校した。


そして、授業中に吐いた。
後ろの席に、私が片思いしていた彼がいた。
いや、記憶が曖昧で分からない。
他のクラスだったかもしれない。
とにかく、私にとって、
その後の中学生活を
ずっと暗い卑屈な気持ちで過ごすことになる事件だった。

私は、その後、気を失って保健室に運ばれた。
意識が戻ったときに、私が吐いた後始末を、
クラスメートの数人がしてくれたことを知った。


私は、彼らに申し訳なく思い、死んでしまいたかった。
多感な少女期に、中学生活のスタートに、最悪の失態を犯し、
この事件は必ず片思いの少年の耳にも届くだろう。

死んでしまいたい、死んでしまいたい。
学校を休んで療養している自宅の布団の中で、
私は自分が生きていることを呪い続けた。


買ったばかりの制服は、どうしてもシミが落ちなくて、
仕方なく、その制服で1週間後、登校した。
結局、この制服を、私は以後、3年間着ていた。
新しいものを買って欲しいといわなかったのか、
言えなかったのか、買ってもらえなかったのか、
無頓着だったのか、
もうとにかく考えたくなかったのか、分からない。


吐き気がする位、緊張しながら登校した私に、
クラスメートは意外にも普通に接し、優しかった。

屈辱は、その後だった。
部活動の前の掃除の時間、ゴミ箱を持って、
焼却炉まで行った帰り、通路を掃除しているIに出会った。
Iは、私を見るなり駆け寄ってきた。

嫌な気分だった。
私は、何も話したくなかった。
全て、なかったことにしたかったからだ。
Iは、私に普通に部活のことを話してきた。
一週間、私が部活に出られず、学校自体休んでいたこと、
その理由をIは知らないはずはないのに、何事もなく話す。
だから、私も、段々元気を取り戻してきた。
死にたいと思っていたが、思い切って学校に来てみれば大丈夫だ。
勇気を出して登校してきて、良かった。
また、平穏に暮らせる。
悪夢は、終わったのだ、と心から安堵した。
普通に話しかけてくれるIが、ありがたかった。
来てみれば、友達がいる学校は、やっぱり楽しい。


色んなことを話した後で、Iは、急に表情を変えた。
ニヤニヤと、粘っこい嘲笑を口の端に浮かべた。
再び、嫌な予感がした。
瞬間、私の制服にIが目を落とした。

「そのシミ、何? どうしたの? どっかで転んだの?
なんだかひどくない? とれないの? 」

私は、目の前が真っ暗になった。
足元が崩れ落ちていくような感覚だった。

Iは、明らかに全て知っていた。
知っているからこそ、あえて知らないふりをして、
無邪気を装い、私に訊いたのだった。
ただ、訊くだけで、たったの一撃で、
無防備に心許した私に、とどめを刺した。

私は、余りの衝撃に何も言えなかった。

屈辱、怒り、羞恥、呪詛、憎悪、自己嫌悪、
殺してやりたいという激しい衝動、それ以上に、
自分など死んでしまえという絶叫。

家に帰りたい、帰りたい、お母さん、お母さん、助けて!

無性に家が恋しくなったのを覚えている。

質問に答えなければならない。
Iは、ニヤニヤと私の返答を、
手揉みでもしそうな勢いで心待ちにしている。

私は、事実をそのまま話すのは、耐えられない。
シミがついた制服のまま、
その制服のシミの理由を話すことは、恥ずかしくて耐えられない。
しかし、嘘をついて言い逃れしても、Iは全て知っているのだから、
ただ私が更に恥をかくだけだ。
何と答えたのか、記憶にない。
ただ、こんな奴、死んでしまえ、と思った。
死ね!死ね!死ね!死ね!

憎しみが暴走して、Iに対して死ね!と言っているのか、
自分に向かって、死ね!と思っているのか、わけが分からなくなった。

もう学校になど来たくなかった。
もう、どこにも行きたくないし、誰にも会いたくない。
あんなに私の日々を幸福にしてくれた恋心も、
私にとっては、分不相応のものとなった。
もう永久に、手に入らない。


しかし、私が幾ら願っても学校は存在し続け、
私は通い続けねばならず、部活動を休むわけにもいかなかった。
常に、私は怯え続けた。
皆が、私が吐いて倒れたことを忘れたとしても、
私は常に怯えていた。
その後、
私が片思いしていた少年が、私と同じように吐いて倒れたと聞いても、
もはや私は彼に同情したりする余裕はなかった。
忘れたかった。
考えたくなかった。
死にたい。
殺してやりたい。
そんな真っ赤な憎しみで、何も見えなくなるから。



少女であり幼稚だった私は、世の中のことを殆ど知らなかった。
無邪気な悪意にも、全くの無防備だった。
自分を保つだけに精一杯で、対抗策が、何一つ見つからなかった。

けれど、一つだけ確かなことがあった。


私は、私を侮辱する力には、
いつだって、決して勝てないということだ。
この世では、いつも力ある者が、正義としてまかり通る。

大人が決まって口にする「勇気」や「友情」や「思いやり」など、
信じていたって、何の役にも立たない。

力とは、強大で揺るぎなく、
常に巧妙で予測のつかない残忍なアイディアに溢れ、
私などは、到底勝てるものではない。


そして、私はいつだって、誰かのスケープゴートだ。
羊に生まれた、宿命だ。


美しい言葉が連なる本の世界に逃げ込み、
柔らかな草だけを食み、
青空を愛そうと穏やかな空を見上げようとしても、
その隙に私の体は、
肉食獣の牙にかかり、片っ端から食いちぎられていく。


どれだけ痛くても、死にかけても、
幼く愚かでひよわな私は、檻に囲まれた学校という舞台で、
いつまでも愚鈍な羊を演じ続けるのだ。

                        (了)

                  

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檻の中で生き延びる | comment(9) |


2008/02/03 (Sun) 愚鈍な羊 1

虐待やいじめの残酷さがテレビなどで語られるとき、
殴る蹴るレイプする、など、分かりやすいシーンや描写は欠かせない。

なぜなら、視覚的に情報を伝える方が安易だからだ。
本当は、体の痛みなんかより心の痛みが致命的だ。
そして、陰湿極まりない、無言のじっとりとした空気こそが
最もいじめの厭らしさ、卑怯さを語る。

いじめは、行動そのものに威力があるのではなく、
人間としての尊厳を奪う、
生きているのが嫌になるくらいの致命的な恥をかかせる、
そこに本質が隠れているのだと思う。
殴る、蹴る、レイプする、全裸にして写真をばらまく、
ネットで誹謗・中傷する、
時代と共に手口は変われども、尊厳を奪い恥を欠かせて精神を殺す、
この目的は、いつでも変わらない。
そして、今か今かと、そのチャンスを全員狙っている、
もしくは狙われるのではないかと、
常に気を張っていなければ危ない、そんな危機感で満ちている。
例えば学校が、
子供たちにとって気が休まる場所ではないのは、当然だと思う。



私のいじめ経験の中から、
最も軽くて陰湿なものを取り上げてみようと思う。


私は、小学校時代、計6人の友達グループにいた。
そこでは、頻繁にいじめの標的が求められた。
6人の中で、何か失言したりすれば次の日から集団で無視したり、
個人的ないさかいがあっても、多数決で全員で嫌がらせをしたり。
いじめというドラマチックな出来事がなければ、
6人の結束を維持するのは難しいらしかった。
幼稚園時代から、そんな人間関係に嫌になっていただろう私は、
つかず離れず傍観していたが、その態度も良くなかった。
反乱分子とみなされた。
私は、よく槍玉に上がった。いじめられた。
いじめといっても、
常に確証のない陰で行われる私への誹謗・中傷が多く、
例えば、休み時間に一緒に遊ばないからといっては呼び出され、
誰それと仲良くしすぎているといっては呼び出され、
私たちグループのことをどう思っているのか、などと言っては呼び出された。
精神的リンチだ。
大抵は、放課後延々複数に詰め寄られる。
なぜか、首謀者が泣き出す。被害者面するためである。
あーあ、泣かしちゃった、どうすんのよ、ひどいじゃない、
など取り巻きに更に責められることになる。
こちらは、泣いている理由すら知らされない。
恋愛感情のような、どろどろとした馬鹿げた理由で、
常にトラブル続きだった。


陥れるためには平気で嘘をつく者もいて、
そんなときには私は否定したが、
常に、グループのリーダー格の勝利となった。
何を言おうと、覆ることはない。
最初から有罪と決まっている裁判に、出頭命令が来るようなものだ。
常に言い知れぬ屈辱と怒りと、諦めを抱き、
最終的には彼女たちの「友達」でいることを私は選んだ。
逆らうよりは、楽だった。


例によって校庭に呼び出された日のことだった。

「Iの本、5冊も借りて返してないらしいじゃない。
早く返しなさいよ! Iは、返してって言えなくて泣いてるのよ」

取り巻きに責められた。
Iの嘘だった。
彼女は、その頃、自己愛に目覚め、
そのためには嘘を平気でつくようになっていた。
私は、無言でIを見ると、彼女は明らかに動揺していた。
取り巻きたちに、何か言いかけて、言葉をのんだ。
取り巻き達が、まさか自分の嘘を私に話すとは予想しなかったようだ。
口止めでもしていたのかもしれない。

暗くなるまで校庭で責められ続けたが、私は認めなかった。
こんな茶番、付き合いきれない。
もう、うんざりだと思ったからだ。
友達とかグループとか、いらないと思った。

予想外に冷めて頑なな私の態度を見て、
Iは、最終手段とばかりに、また激しく泣き出した。

「私、みんなと仲良くしたいだけなの。ケンカしたくないのに。
なのにどうして・・・・」

それはもう、かわいそうに泣くのだ。
取り巻きが、彼女の肩を抱く。
他のメンバーは、憎しみいっぱいの目で私を睨み付ける。

結局、私は、ありもしない本の存在を認めることになった。
認めるだけでは気がすまない彼女たちに、
「必ず返す」などと言質を取られた。
認めない限り、茶番は延々続くのだ。


I自身、そんな本が存在しないことを知っている。
これは、ただのお芝居なのだ。
全て。
中身などない。
だから、芝居にのっとって私は私の役を演じるしかない。
役名はまさに、「スケープゴート」。
愚鈍な羊だ。


その直後に塾があった。
そのことも、私が冤罪を認めることにした、大きな理由だった。
塾も、彼女たちと同じところへ通っていた。
生き残りたい私は、彼女たちのルールに従うことを選んだ。
その場で私が取りうる、最善の選択だった。
いや、選択肢など他にはないのだ。


「じゃあ、今日からまた、わたしたち友達だよね」と、
ほっとしたように皆が言った。
私が、変わらず彼女たちのスケープゴートであることを確認できて、
皆、生贄を確保できたことで、心から安堵したのだ。
私も、ほっとして笑顔になった。

その私に、一人が二冊のノートを見せた。
そして、こう言った。
「実はね、あなたを除いて私たちだけで交換日記してるんだけど。
いいよね?」

訊かれた。

正直、私は直前のやりとりと、そのノートが咄嗟に結びつかず、
答えに窮した。
予想外のタイミング、予想外の真実だ。
全員が、私の反応を見るともなしに見ている。

「うん、いいよ」と答えるしかなかった。
彼女たちは、更にほっとした顔をした。


私は、形だけを取り繕い、内心では信用しないことにした。
「ともだち」とは、名ばかりで、いつ裏切られるか分からない。
また、力関係の変化によっては、
今の友達もそのうち見切りをつけねばならない。
弱肉強食の獣たちでひしめきあって、自分だけは何とか生き残ろうと、
あらゆるパワーゲームを繰り広げ、互いを食い合っているのが、
学校であり、「友達」なのだと知った。




◇愚鈍な羊 2 に続きます。


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檻の中で生き延びる | comment(0) |


2008/02/03 (Sun) スカスカ十か条

依然、脳が変な感じに活性化。
色んなことを同時にやっている。

最近はまっている和風鮭柚子風味スープを熱々にして食べながら、
陽気で甘ったるい大塚愛を聴きつつ、テレビでサッカー情報を見て、
手元でブログを書きながら、合間にスケッチブックに詩を書いている。

そうやって自分の時間を楽しんでいると、正直、
例の迷惑ブロガーさんは、アホ臭くてどうでもいいや、と思えてくる。

しかし、今回のことは、いじめの正体、核心に迫れる
絶好のネタを与えてもらえたも同然なので、やはりきちんと書きたいと思う。

まずは、記事がいくつになるか考えてみた。
今後、<ブログの匿名性><メディア倫理>
<スカスカ言葉パワー(←命名しました)>
<精神的処女性と社会>
の4つに分けて、記事を書いていこう。
記事は、合体したり増えたり減ったりするかもしれないが、
テーマは、変えないつもりだ。

何のために書くか。

それは、ひとえに、私が大嫌いな人種をこき下ろすためである。
薄っぺらな悪意など蹴散らす「上質な悪意と知恵」を駆使して、
大嫌いな人種、
私という人間を卑怯なやり方で非難する人種を、論破しようと思う。

どんな屈辱を味わわされても、
決して自身の尊厳を折られないための心構えとして、私は、
「いじわるな人間の悪意を上回る上質な悪意と知恵」
について、考えてきた。
いじめにも、虐待にも、
職場での嫌がらせにも対抗しうる、一つの有効な策だと考えている。
これだけでは、到底生き延びるには難しいが、
自分の心を守るためには、多分、必須の武器だ。


では、私が戦うべき、大嫌いな人種とは、
具体的にどんな人だろうか、と書き出してみた。
大嫌いな人種とは、人をいじめたり、無闇に非難したり、
いざとなれば平気で人の尊厳を奪うような人間のことである。

だいたい、以下のような要素を全て兼ね備えて、
私の大嫌いな人種は出来上がるように思う。


1 幼稚なくせに、知識は半端に持っている

2 その知識を使いこなす知性に欠ける

3 知性に欠けるため、品性に欠ける

4 感情の表出に羞恥心が強いが、自意識がそれ以上に肥大している

5 倫理・道徳・大衆など前時代的看板に、今だ威力があると妄信している

6 よって、感情の表出の際に大看板を振りかざし
  数にものを言わせるしか能のない馬鹿の一つ覚え

7 スカスカで中身のない言葉で演説ぶって個人的感情と倫理を摺りかえる

8 内心他者を見下し侮っているため、他者を尊重するマナーを知らない

9 精神的処女膜をひきずったまま偉ぶり、むしろそれを誇る

10 無作為な悪意でもって、他者の人格を否定・非難し、自己賞賛に変える


一言で言えば、
「人を非難することで自己を確立しようとする、スカスカで幼稚な人間」
が大嫌いだ。 これは同時に、
学校や職場にはびこる「いじめっこ」が必ず持っている素養でもある。
そして、「スカスカ」だから、それなりに威力があるのだ。
その理由は、<スカスカ言葉パワー>についての記事で明確にしたい。


この記事を書くつもりになった経緯は、ご興味があれば、
リンク先記事をご参照ください。
簡単に言えば、親しくさせて頂いていたブロガーさんが、
私を名指しで非難する記事を、ブログに掲載したことに始まる。

◇怒りの適量算出法
◇携帯サディズムストラップ
◇携帯サディズムストラップ 『 いじめ 』


以前の記事にも書いたが、
私は、いじわるな人をいじめることを何とも思わない。
このブロガーさんのスカスカな理屈を解体して論破しようと思う。
建設的な批評へと、結実することを目指して。


いじめは、決してなくならない。
それが当然だと思っている。
根拠を持って、そう断言できる。
決してなくならないものを、なくそうとするから、
いつまで経っても解決しないのだ。
しかし、いくら存在し続けようとも、私は決していじめを許さない。
虐待もなくならないだろう。けれど、絶対に許さない。
被害者がいる限り。
痛い、悲しい、自分など生きている価値などない、
生きていることが苦痛だ、そんなふうに苦しむ人がいる限り、
私は、人をいじめる人を絶対に許さない。
スカスカで馬鹿げた強者を如何に挫いてやろうか、
如何に戦い看破してやろうか、そのことを考え続け、行動し続けたい。

いじめる側にも、解決すべき問題がある。
子供に限らず、人をいじめずにはいられない人間は、
大抵、心の奥底で、悲鳴をあげているものだから。
そちらをケアしたいと考える人もいるだろう。
しかし、私が出来ることは限られているから、
私の経験と立場から、私が発言できることを、
きちんと書きたいと思う。

まずは、そこから始まるのだと思っている。
今、死にかけている人、いじめられている人を救うことが
最優先に為されるべきだ。
そして、誰かを救う前に、私は私自身の身の処し方をマスターするべきだ。


なんだ、と笑ってしまった。
結局は、私は私のためにブログを書いている。
レンジでチンしたスープを食べながら、
スケッチブックに何事か書きなぐり、テレビと音楽の雑音の中、
何種類もの薬をかじって、
アホくさいわぁ、と一人で毒づいている独身女がいるだけだ。




関連記事 宮崎駿と「セント・オブ・ウーマン」
(『精神的処女性』について書いています)
◇処女の足だって縺れる


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檻の中で生き延びる | comment(7) |


2008/02/02 (Sat) 携帯サディズムストラップ 『 いじめ 』

お知らせ。

記事、<携帯サディズムストラップ>の全文を、修正致しました。
今回の記事で、「いじめ」への対抗策について、
もう少し触れる必要を感じたからです。


学校、家庭、会社、人が集まるところ、必ずいじめや暴力が存在します。
子供も大人も、上質な悪意と知恵を携帯すれば、
もう少し、生きやすくなるのではないか。
守りたい人を守り、愛したい人をきちんと愛せるのではないか。
非人道的な扱いに対し、決して心折られることなく、
自身の尊厳を守りきれるのではないか。

虐待やいじめ、不当解雇、裁判の原告など経験する中で、
泣いてばかりで卑屈だった私が辿り着いた、
今現在の私なりの方策の一つです。


いじめ・虐待・暴力で傷ついても、
どうか一人でも多く、生き延びることができますように。



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檻の中で生き延びる | comment(10) |


2008/02/01 (Fri) 携帯サディズムストラップ

先日の記事<怒りの適量算出法>に、
たくさんのコメント、ありがとうございました。
心から、感謝しています。
私のブログに来てくださる方々は、
どうやら毒舌で漢気溢れる女性、男性が多いのですね。
皆さん、ステキ過ぎ。
先日の記事で、私は「一人の友人がいれば百人力」と書きました。
読んでくださる皆さんのコメントを拝見して、百人力どころか、
ありがたく、どうしよう、と正直、驚き混乱しているところです。


これだけの反響を頂きましたことで、私自身、
先日の記事に至った経緯をご説明する必要を感じました。

しかし、以下のことだけは、必ず守りたいと思っています。

一つ、あくまで、お相手のブロガーさんの匿名性は守ります。
私は、匿名性というルールを犯して私を名指しされた方に反論するにあたって、
決してブロガーさんの匿名性を犯さないことを誓います。

もう一つ。
数に物をいわせることを、私はよしとしません。
反論するにあたって、ここで記事を書く限り、文責は全て私にあります。
件のブロガーさんの行為に、あらあら、と私が思ったのは、
不特定多数の読者の面前に私という個人の情報を晒したことにあります。
まるで2ちゃんねらーみたいなことをするのだなぁ、と呆れました。
2ちゃんねるには、滅多に出入りしませんが、あれはあれで、私は好きです。
しかし、ここは2ちゃんねるではなく、ブログです。
ご本人は、匿名だから私を名指ししても問題ない、とお考えのようですが、
この点が、ブロガーさんの最大の思い違い、驕り、欺瞞です。
後の記事で、匿名性について私個人の見解を書きます。


私は、ブロガーさんの匿名性を遵守します。
ブロガーさんのコメントは、こちらに今だ残っているようです。
その方が、私のブログを再訪して、一つ一つ消されるのであれば、
ご自由になさっていただきたいと思います。
ご本人が消されないのであれば、私はそのままにしておきます。
私のブログですから、私はどのようなコメントでも、
価値が全くないもの以外、全てにお答えし、意見の相違があった場合でも、
同じブロガーとしての立場を尊重し、コメントは残すことにしています。
多分、来られないでしょう。
来られる位なら、ご自身のブログで私を名指しなどしません。


経緯をご説明する前に、
私のブログの「生々しさ」についてお話したいと思います。
件のブロガーさんから「メディアの倫理に反している」と、
最も非難された部分です。


以前から読んでくださっている方には、お分かり頂けるかと思いますが、
当ブログは、生々しい描写が多いようです。
私がこれまで出入りしてきたブログやホームページは、
更に生々しく、時に嫌になるくらいどぎつかったので、
自身では、あまり自覚がありませんでした。
そんなサイトについて、面白いので今度書いてみたいですが。

私のブログが生々しいといっても、メンタルヘルスによく見られる、
自傷行為の画像だとかに見られる生々しさを、
皆さんが感じていらっしゃるのではないようです。
闘病記に加えて、私の過去や恋愛や、性的嗜好を描いているために、
ときには、私の息遣いまでが皆さんの耳に聴こえるのかもしれない、
だから「赤裸々」「ありのまま」「たまに受け入れられない」などの
率直なご感想をいただけるのかもしれないと思っています。

私は、それ以上の賛辞はないと感じています。
皆さんからコメントを頂くようになって、
率直なご感想、また思いなど語って頂き、
そんな貴重な言葉の一つ一つから、
曖昧な「私」という形を客観的に知ることが出来るようになってきました。

現実の私は、生きているようで生きていない、
存在しているようで、存在していない、
自己が曖昧だという病と共に生きています。
私のブログへ足を運んでくださる皆さんは、
それぞれ驚くほどに個々の違った個性を持たれながらも、
何と磨かれた鏡を持って私の前に立ってくださるのだろうか、
皆さん、なんと真摯に生きてらっしゃるのだろうか、
とブログを始めて以来、感動の日々を送っています。


では、ブロガーさんとのトラブル、
というより私にとっては単なるネタなのですが、
ここまでの経緯と、私が反論すべきと思った動機を簡単にご説明します。


ブロガーさん(以下、略してBさんとします)とは、
しばらく親しくコメントのやりとりをさせて頂きました。
アートやモードに関心を持たれている方で、
尊敬する哲学者など共通項があり、
私のSM記事だとか、自傷に関する記事、
それぞれに常に寛容に接して頂き、
コメントも、
「あなたの記事は、詩的で文学的だ」などと評して下さいました。

しかし、ある頃からBさん自身の心模様が不安定になってきました。
記事から拝察するに、そう感じました。
その頃、私自身、多少心の安定を失い、つい数日前のことですが、
ある記事を書きました。
内容は、これまでの足を自傷しただとかに比べれば、
何ということはない記事で、
たくさんの方にご心配おかけしましたが、
メンタルヘルスブログが抱える宿命のようなものでもあり、
また私自身、コントロールしようのないもので、
これまでと変わらず、私は記事にありのままの私を書きました。

そのタイミングと、私の記事内のどの単語かが、
Bさんのトラウマに触れたようです。
私の現状とは裏腹に、かなり切迫したコメントを頂きました。
足の自傷やSMの記事にも動じなかった方が、ある日突然、
「死んではならない」という意味のコメントをくださったのです。
私は、Bさんのトラウマの何かに触れてしまったのだと直感し、
ただただ、「ご心配おかけしました。ありがとうございます」とお返事しました。
メンタルヘルスブログで交流する以上、
誰かのトラウマと自分のトラウマが重なってしまうことは、
避けられない事故です。


それから数日、Bさんから、変わらぬ温かいコメントを頂きました。
何気ない日常のお話までしてくださり、
私はBさんの心の内を知る機会がありませんでした。
ある日、いつもと変わらずBさんのブログを訪れて、私は目を疑いました。
過去の私が残したコメントの全てが、消去されていました。
また「あなたのブログが一番リアリティーがあるのでリンクを貼らせてください」
と、お申し出くださり、リンクを貼って頂いていたのですが、
それも消去されていました。

私は驚き、思い当たることがなかったため、率直にお訊きしました。
「私が何か失礼しましたでしょうか。申し訳ありませんが、ご連絡ください」
すぐに私のブログに鍵コメで返信されてきました。

Bさんがくださったコメントを要約すれば、こんな感じでした。

「あなたのブログは、ランキング上位の人気ブログだ。
あなたに親しみを持ち、本気であなたを心配している読者が大勢いる。
なのに、先日の記事(恐らく<怖いだけ>)では、
あなたは、あまりに生々しい心境と症状を書いて、読者にぶつけた。
あなたの激しい気持ちに、心を揺さぶられた人が大勢いる。
メンタルヘルスランキングにランクインしている限り、
読者には精神障害者が多い。なのに、あまりに配慮がなさすぎる。
よって、あなたのブログを自分は認めることはできない。
貴方ほどの想像力と知性を持った人ならお分かりいただけるはず」


私の当初のスタンスは、当ブログ内の記事<柔らかな葉っぱ>の、
コメント返信欄をご覧頂ければ、大体のことは、お察し頂けるかと思います。


ここまでは、何の問題もありませんでした。
あまりに頑なになってらっしゃるので、
私は彼のブログに一応、自分の返信を書き込み、以後、
あちらからコンタクトがない限りは、関わらないことにしました。
面倒に巻き込まれたくてブログをやっているわけではないので、
以後、こちらにBさんが来なければ、それで片付く話です。


しかし先日ですが、Bさんが自身のブログ記事内で、
「美鳥さんとは、はなはだしい価値観の相違がある。
よって、あなたのブログは認められない。それだけ言っておく」
と、名指しで完全否定されました。
これは、私はある方から偶然お聞きして、見に行って確認しました。
なるほど、こんな手があったのか、と正直驚きました。
私のブログ内で鍵コメで書いた次は、
自身のブログで名指し記事にしますか、と。
この段階で、私はBさんをスルーすることをやめました。
こういう方は、私のブログに来なきゃいいと思っていましたが、
ここに来ないでも私を非難する方法があったわけです。
しかも、私自身知らない間に、
不特定多数の前に私が晒されていたわけです。
メディアの倫理がどうの、読者への配慮がどうの、生々しいのがどうの、
なんだかんだと大仰な言葉を連ねてらっしゃって、申し訳ないですが、
私は、大爆笑しました。
なぜ笑えたのかは、
記事<怒りの適量算出法>に書いたとおりです。


私は、現在、そのブロガーさんのブログへは一度も足を運んでいません。
既に、どうでもいいからです。
アホくさいし、私も暇ちゃうし。
何でも、友人から聞いたところによると、その記事も後で削除したのだとか。
削除されようと、関係ありません。
ご自分のブログですから、ご自由に、です。


新しい記事でスカスカ解体ショーを開く前に、
この点だけは述べておきたいと思います。


Bさんの行為の、最も卑怯で矮小な点。
それは、自身も匿名という隠れ蓑の陰に隠れながら、
隙を狙って、卑しくも、私の匿名性を剥ぎ取ろうとしたことです。


名指しとは、このブログの世界においては、最も有効な悪意の表明です。
くだらないスカスカな馬鹿げた行為ですが、
匿名の相手に何とか打撃を与えようと悪意をこらせば、
本人に無断で、不特定多数の人間の前で名指しで非難、
しかも、詳細を語らずイメージだけを聴衆に植え付ける、
これが最良の手段です。

これは、現実社会での「いじめ」と同じく、
中身も、大した知恵もないくせに、
打撃だけ効率よく相手に食らわせる最良の手段です。
子供から大人の世界まで、いやがらせ、いじめとは、
全てそんな動物的直感で行われている悪意です。
Bさんは、自覚がないようです。
大概のいじめる人間に、自覚がないように。
これは、いじめっこの感性、発想そのものです。


Bさんのセリフ「それだけ言っておく」は、
言い換えれば、「それしか言えない」のです。
さも他に言いたいことがあるように、見せかけているだけです。
私の名前さえ晒せれば、それで私に打撃を与えたつもりになれて、
気が済んだのでしょう。
実に下らない演説です。
詳細を知らない読者たちは、さぞや楽しめただろうと思います。
ゴシップ記事と同じですから。

いじめもまた、そんな下らない非建設的なお祭り騒ぎです。
いじめっこは、ときに最強に見えますが、
実際はスカスカで何もないのです。
この「スカスカで何もない」が、最強たる由縁なのですが、
それは、また別の記事で。
いじめと同じ行動様式を見つけ、私はBさんの非難を大歓迎しました。
いじめについて書くにあたって、十ほど考えている方策の、
どこから、どう書くべきかと考えていたときに、
奇遇にもネタを与えてくださったからです。

いじめに、弱者も強者もありません。
相手に打撃を与える具体的発想を上回ったものが強者であり、
いじめっこです。
Bさんの、私を否定するアイディアは、一時私の想像を越えました。
しかし、現状を把握した私は、Bさんの発想を上回ってみようと思います。
更なる悪意と知恵を駆使して。
ルールさえ守れば、私はBさんを上回り、
かつ、いじめっこでも、いじめられっこでもなくなります。



そして、ネットでの匿名性、メディア倫理、ブログの存在意義、
ブロガーの自負と責任、そして「いじめ」の本質について語りたく思いました。

Bさんから名指しで喧嘩を売られたようなものですが、
私は喧嘩を買わず、水に流し、
高所恐怖症ながら、Bさんより数段上の舞台によじのぼり、
そこから長い槍で突つきまくってやろうと考えています。
ご自分から、まな板に乗って料理してくれと名乗り出てくださったのですから、
料理人として、わざわざご指名くださった私なりの料理法で、
美味しく仕上げて差し上げたいと思います。

怒りの表明の方法は、多くの心の病を抱えた方達にとって、
大きな課題でもあると感じます。
怒りは、使い方によっては、悪いものだとは思いません。
尊厳を持った人間が、人間たる必須条件だと思います。
私は性的にマゾヒストですが、文章を書くときには、常にサディストです。
上質の悪意を携帯することを、常に忘れたくありません。
悪意は、振りかざすものではありません。
ちょこっと、キラッと見えれば、それでいいのです。


Bさんは、もうここには訪れないと思います。
今後一切、関わる価値がないものと分かりましたので、関係ありません。
私が自分のブログ内で記事にしようと思ったのは、
Bさんのブログを尊重すべきと思ったからです。
誰のブログであっても、コメント欄は大切な交流の場です。
Bさんを慕い、Bさんとの交流を楽しんでらっしゃる方達の中に分け入り、
Bさんを否定するような言葉を垂れ流すのは野暮の限りです。

私は、Bさんのブログを汚す行為はしたくありませんし、
また、自身のブログを汚すようなこともしたくありません。
単なる罵りではなく、建設的な批評に変えて、
また今の私が持ち得る上質の悪意と知恵でもって、
ここで、ささやかながら反論したいと思います。


他カテゴリーの記事に混じりながらになると思いますが、
今回の出来事から私が考えたことを、
纏まった時点で順次、幾つかの記事にしてみたいと思っています。



ここまで偉そうなことを書きましたが、今回の出来事に当たり、
ブログ友達には、散々に愚痴ったのも事実です。

だって、めっさ腹立つやん。


しかし、私が怒りで我を失わず、こうして有益なものへ転化できるのは、
一重に、私を支えてくださるお友達のお陰です。
私の愚痴を聞いてくれて、一緒になって怒ってくれて、
もうそれだけで、本当に本当に、ありがとう。
悪口は嫌いだけど、愚痴は歓迎だよ、て言ってくれた
誇り高く優しいあなた、ありがとう。

文字だけの世界なのに、心が通っています。
いつも応援くださり、感謝に堪えません。
何度でも。
ありがとうございます。




過去記事ですが、私のブログのスタンスです。
読んでくださる皆さんへ、感謝をお伝えしたく書いた記事です。
よろしければ、ご覧ください。
◇両目を開いて生きる 2 - 人格障害者の生 -


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檻の中で生き延びる | comment(6) |


2008/01/31 (Thu) 怒りの適量算出法

私は、これまでの人生、いじめられて生きてきた。
家庭では、「死ね」「キチガイ」「精神病院に入れ」など言われ、
「お前に友達が出来るわけがない」
「友達は友達のふりをしてくれてるだけ」
「狂人の血が流れている」「業が深い」など、言い聞かされて育った。
学校でも、いじめにあった。
このことは、触れた機会がなかったが、今回思い出した。
小学校二年以外は、常に教師からのいじめ、または友人間のいじめ、
トラブルに巻き込まれてきた。
小学校時代は、一年間教師筆頭にクラス全員からいじめられた。
授業中、教師からボールを蹴りつけられるなど日常茶飯事で、
勉強は出来た方だったが、成績表はがた落ちに落とされた。
一番好きだった国語に、一番最悪な点をつけられた。
標的にされた友達は、国語に1をつけられ、不登校になった。
無理やり、女子とキスさせられ、不登校になった男の子、
少し塾で習ったことを口にしたばかりにいじめられ不登校になった男子、
私は、解離のおかげか信仰のおかげか、通い続けた気がする。
教師は、その後、別の学校でも同様のことを続け、
教育委員会から、懲戒処分を食らった。
友達からのいじめもその後受けたが、どれも陰湿で、抵抗しようがなかった。

教師に、いじめの標的にされたのは二度だ。
私は、いじめられながら、彼らの姿を見ていた。
首謀者、傍観者、陰口、新しいいじめ方の計画、相談、実行、
私の反応を見て、にやけるクラスメートたち。
彼らは私を全員で眺めて楽しんでいたが、
私は彼ら一人ひとりを見つめ返し、眺めていた。
人生経験になったと思う。

中学校でも、いじめにあった。
学校で寛いだことはない。
高校時代は、私は冷めすぎていて、全然違う性格だった。
よって、いじめは傍らで行われたが、私は関せずのスタンスだった。


私に一貫していたのは、「ごめんなさい」だった。
私が悪い、全部悪い、ごめんなさい、ごめんなさい。
私の言い方が悪くてごめんなさい。
あなたの気分を害してごめんなさい。
存在していて、ごめんなさい。
あなたの望む優しさを持ってなくてごめんなさい。
許してください。ごめんなさい。


それだけで、生きてきた。
大学時代に、この24時間謝罪態勢はピークに達した。
冗談に思われるかもしれないが、遠くの国の戦争をテレビで見ても、
ああ、ごめんなさい、と謝っていた。
全世界に、自分が存在していることを、謝罪し続けていた。


アダルトチルドレン、鬱気質、心を病むほどに自分を追い詰める人は、
大概、自分を責めすぎる思考回路を持っている。
いやみな人間、無神経な人間に対し、自分を守れない人も、
この傾向にある。
怒りを、うまく燃やすことができない。
それは、とても苦しいことだ。
ずっとそうして生きてきたから、分かる。
とてもとても、息をしていることすら苦しいくらい、とても苦しいことだ。
優しい人は、自分の至らなさを見つけるのは、大の得意だが、
相手の欠点が見えても、それも全部自分の責任として背負ってしまう。
自動的に、相手への怒りも、自分の責任へと転化する。
ごめんなさい、そんな気持ちで生きている。
私も含め、そんな性質の人間が、
自分が持っている権利や怒りを見つけ出すのは、至難の業だ。
権利や怒りを見つけ出す作業なんて、したことないからだ。


私は、そんな状態から脱出し、挙句、裁判の原告をやったり、
実家が悪徳リフォームに騙されたり、葬儀会社に騙されたり、
マンションの過失で水害被害に二度もあったり、警察呼ぶはめになったり、
それら全部を一人で解決するため奔走するだけに数年かかった。一
裁判の原告になるはめになった職場では、非人道的いじめを受けた。
うわー大人になっても、何にも変わらないんだな、と思った。

神様から随分スパルタな鍛え方をされた。
結果、ありがたいことに、私の芯は、怒りでぶれることはなくなった。



大人になり、カウンセリングを受け始めて数年後、私は、反撃を開始した。
いじわるな人間に対し、幾ら腹が立っても、善良な人間として、
彼らに怒っては大人気ない、と考えていたが、
どうやら、そんな世の中ではないようだった。
いじわるな人間の持っている悪意を上回る知恵と悪意こそが、
世の中への対抗策であり、自分を愛することであり、
愛する誰かを守ることなのだと悟った。


私は、怒りを正当に表明することにした。
救いようもない意地悪な人間は、大いにいじめることにした。
子供時代、私が私自身のために戦えなかった分、
戦うこと、行動することが誰かを守ることなのだ、
それを信条として生きていきたいと思った。

そのかわり、怒りを表明する前に、
その内訳を事前にじっくり分析する癖がついた。
今まで非難されてきた分、自己分析は得意だ。
自分の至らない部分は、意識せずとも山ほど知っている。


なんでこんなこと書いているかって。
今朝、ブログ友達と話していて、あることを聞いたのだった。
「美鳥さん、あのブログで名指しで非難されてたよね」と。
私は、そのブロガーさんには、意見の相違はあったものの、
私の考えは、お伝えすることだけお伝えしたので、
以来、その方のブログへは行ったことがなかった。

ブログ内で名指しとは。
そんなことする人いるんだろうか。
何が書いてあるのやら、と訪れてみた。


大爆笑だよ。


朝一で、笑わせていただいた。
あろうことかブログ記事内で、名指しで私を完全否定。

「ブログは、一種のメディア。
メディアである限り、どういう目的で、読者は誰で、
何を伝えるかは考えておかなければいけない。
メディアであるなら当然の倫理。
美鳥さんの記事は、倫理に反する。
生々しすぎる。
はなはだしい価値観の相違がある。
それだけ言っておく」


まとめれば、以上のような感じだ。
もっともらしいですよ。これは。

うん。実に、もっともらしい。

そして、実にスカスカでペラペラで、
偉そうな言葉を並べ立て、自分は大層な言葉の陰に隠れて、
幼稚に私を、ばーかばーかと、罵っているだけだ。
脱力した。

余談だが、この方は、私を非難した後も親密なコメントを
このブログに寄せたりして、だから私は何も知らなかった。
が、その間にブロガーさんは、
ご丁寧にもご自身のブログの私の痕跡をしこしこ一つ残らず消していたようだ。
何も知らない私が訪れたときには、私のコメントは全て消されていた。
自分のブログなんだから、何をしてもよいだろう。
しかし、ならば、あの親密なコメントは謎。

私を非難した記事に、いかに中身がないかは、
記事を変えて、ブロガーさんの主張を全て解体し、
いかに中身のないスカスカか、ご披露してさしあげようと思う。
そして、このブロガーさんが、
いかに読者の目を舐めているかも明らかになるだろう。


反撃ではなく、反論だ。
ブロガーさんのような、単なる非難は全く非建設的だが、
批評は、建設的なものだと信じる。
まして、私をわざわざご指名なのだから。
無作為な悪意でもって人をいじめる人を、
いじめる労を、私は何とも思わない。


ブログとはいえ、メディア倫理に照らし合わせれば、
私のような記事は、匿名で書くにはふさわしくなく、
実名で書くべきこと、ですか。
匿名の人間に対し、匿名の人間が非難する矛盾。
2ちゃんねるの祭りより劣る、茶番だ。


余談だが、実名で書いても私は、構わない。
究極のところ、私が顔をさらして語ることで、
虐待やいじめや暴力、
心の病と戦う尊さが正しく世間に伝わるというのなら、
顔くらいさらしたってお釣りが来ると思っている。

既に、どこに住んでいるかも書いているし、
私の主な友人知人は、このブログを知っているし読んでいるし、
私が何も誤魔化すつもりがないし、私がどんな夢を持っていて、
どんなふうに行動したいのか、私の周囲には既知のことだ。
ここに書いている以上でも以下でもない。
私は、ありのままだ。
表に出たって、友達にだって、
ここで書いてることと同じことを話している。
私の遺書になりかねないので、弟だって、読んでくれているのだ。
誤魔化せやしない。



それにしても、名指しとは。

残念ながら、私は冒頭に書いたように、
人生完全否定されて、死ねと言われて育った人間なので、
今さらブログで名指しで否定されようと、痛くもかゆくもない。
100人の否定者がいようとも、1人の友人がいれば100人力だ。

むしろ、大歓迎。
大爆笑。

もっともらしいことを言って、
更に自ブログの訪問者に私の名を晒し、否定し、
私にダメージを負わせたつもりらしいけど、私は手を打って喜んだよ。
私を腹の底から笑わせてくれ、
そして私のネタになろうと、ブロガー自ら名乗り出たのだから。
私が、ブロガーさんの鍵コメに対し、
あくまでブロガーさんの匿名性に傷をつけまいと、
苦心しながら精一杯コメントをお返ししたことは、全くの無駄だった。
しかし、私は何事も大切にしたいので、
無駄をリサイクルして、自分を豊かにしようと思う。


怒ることを日本人は、あまりよしとしない傾向にある。
でも、怒りの表明を、私は大切にしている。

怒りは、その人そのもの、愛されたい願望と同義だからだ。
私は、数年前まで、誰かに怒りを表明することを一切しなかった。
傷ついたときにも、へらへらしたり、黙ったりしていたと思う。
好きな人にも嫌いな人にも愛されたがって、媚びへつらい、
そんな嘘偽りの自分を嫌いになるのは当然だった。


私が心がけている怒りの表明ルールは、
私の理性でコントロールする、感情のパーセンテージでもある。
以下が、対人関係における基本的私のパーセンテージ。

怒りは、二割引きすることにしている。
これは、対等な人間として自己を主張する権利を私も有しているからだ。
つまり、八割はお返しする。
あとの二割は、私が飲み込む。
勘がいい相手なら、この飲み込んだ二割を察してくれる。
しかし、察しが悪い相手だからこそ腹が立つのであって、
大概は自分自身がのむ。


感謝は、十割そのまま。
自分の感情に、上乗せも手抜きもしない。
感謝は、ありのまま伝える。
嘘をつかない。大袈裟にも伝えない。
感じたまま、いただいた美しい心、そのままを出来るだけ壊さないように、
大切にお返ししたい。


誠意は、十一割。
一割、上乗せする。
これは、自分が後悔しないため。
そして、自分の間違いを指摘されたときに、
意固地になって自分を見失わないため。
いつでも、謝罪する姿勢を失わないため。
相手を、対等な人間として尊重するため。


これらを総合すれば、私は相手様に全部で七割お返しすることになる。
相手に届く、届かないは、最終的にどうでもいい。
私が、後悔しなければいい。
声をあげるだけでも、
私が守りたい人、守られるべき人を守れるなら、それでいい。
何もせずに、誰ひとり守れず、ごめんなさいしかいえなかった私は、
もう、いない。
忍耐は、する。
しかし、なんでも程度というものがある。


あくまで匿名の上で私を非難するならいいだろう。
大いに自身のブログで、メディアだランキングだ倫理だと、
もっともらしくてスカスカな言葉を並べ立てれば良いだろう。
そんな言葉が好きな方たちと、親交を深めればよい。
ご自由に。

しかし、このブログの世界で、名指しで非難するということが、
どれだけタブーなことか、
怒りにかられて我を見失ったブロガーさん自身、
自分が何をやらかしてしまったのか、
全然ちっとも全くこれっぽっちも分かってないらしい。


名指しでなければ、私もスルーした。
私のブログで、醜い言葉をわめき散らさない限り、どうでもいいもの。
その方のブログが、スカスカチープになっていくだけだ。
しかし、名指しされたので、私は私の信条にのっとり、
七割、お返しすることにした。
ただし、私を名指ししたブロガーさんにではない。
ブロガーさんの記事を読んで、私のところへ来てくださった方、
そして、色々な事情を抱えながら、それでも通って来てくださる方々、
誰かにお伝えできたら、それでいい。


そして、私が一番ブロガーさんの記事を喜んだ理由は、
ブロガーさんの姿勢そのものが、
今、学校や職場で横行している、いじめ体質そのもの、
まさに象徴的な行為だったからだ。
無作為な悪意。
これが、いじめの本質だ。
正体だ。
いじめの本質を書く機会を得て、私は喜んでいる。
気が向いたときに、ブログの匿名性、メディアの倫理、
いじめの本質、無作為な悪意に対抗する、
上質な悪意について書こうと思う。


怒りとは、決して感情に任せて、烈火のように燃やしてはならない。
私にとって、怒ることと愛すること、守ることは、同義だ。
怒りは、静かに、冷静に燃やさなければならない。
激しいだけの烈火は、誰にとっても醜い火傷を残すのだ。




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檻の中で生き延びる | comment(10) |


2008/01/28 (Mon) 処女の足だって縺れる

私は、宮崎駿作品が苦手だ。
殆どの日本人が宮崎駿を好きなようだ。
CMだとか宮崎駿の仕事ぶりだとか、
やたらマスコミがもてはやす風潮にある。
こんなことを言えば、殆どの日本人に嫌われるだろうが、
私は、宮崎アニメは、生理的に受け付けない。

あああああ・・・言ってしまったよ・・・!


なんだかんだで結局殆どの作品を見ていて、
セリフを一部覚える位には、何度も見ている。
しかし、正直、落ち着いて見ていられない。
そわそわする、苛々する。
和みはするが、落ち着かない。
感動はするが、どこか腑に落ちなくて居心地が悪くなる。
肝心のヒロインに、なぜか全く感情移入できないのだ。
「魔女の宅急便」と「耳をすませば」は、例外。
大好きだ。何度も見た。


MTに、宮崎駿作品は、私は見るのしんどい、正直嫌い、と話したら、
そりゃそうだろ、とあっさり返ってきた。
え、なんで?と訊いたら、

「宮崎アニメに出てくるのは、全員少女やん。
 姉貴、少女が嫌いやん」

と言われた。


ああ!そうか!そうだよ!
凄く納得した。
さすが。
私の嗜好を知り尽くした、彼ならではの鋭い一言。


宮崎アニメを見ていて、いつも私が無意識に呟きたくなる言葉は、
「どいつもこいつもセックスしてから、もっぺん出直してきやがれ」
という、下品も下品、
酒瓶抱えてやさぐれた、おっさんみたいなセリフである。
実際は、もっとアレな言葉で毒づいていたりしなくもないが、
私の人品も疑われかねないし、禁止用語なので控えておく。

子供の情操教育には、とても優れた映画だと思う。
宮崎アニメを否定する者は、
純真な子供心を解さない日本人、という空気をひしひしと感じるが、
その空気ともども、私には息苦しい。私の心が薄汚れているのか。
しかし、私は大人であって子供ではない。
あくまで大人の私の目線で書いてみようと思う。


「少女が嫌い」

確かに。
私は、大人の心を宿した少女は好きだが、
少女ということに甘んじている少女が好きではない。
肉体的に処女だろうと、どうでもいいが、精神的処女が苦手だ。
大人にも、この「精神的処女」がいて、
そういう女性が私はとても苦手なのだが、
詳細を書いていると、この先の本題からずれるので、今は控える。

いい女になりそうな空気を、肌身離さず持っている少女が、好きだ。
年齢関係なく尊敬する。
あまり見かけないが、たまに、そんな奇跡的な少女はいる。


宮崎作品に登場する少女は、全て「精神的処女」に見える。
この「精神的処女」は、宮崎駿世界を構築している象徴的柱だ。
宮崎駿映画に「いい人」は登場するが、「いい女」は出て来ない。
登場人物の男も女も、ことごとくセックスしなさそう、と感じる。
作中、たまに大人の女が出てくる。
でも、皆大人の顔をしているだけで、色気がない。
ズボンをはいている、スカートをはいている、
しかし性器を持たない、そんな人形劇を見ているようで、
私には、窮屈で仕方ない。
リカちゃん人形を着替えさせているときに、
何となくスカートをめくって性別を確認したくなる違和感に似ているのか。
これじゃ、ただの変態と思われかねないので、別の言葉を選んでみる。


「いい人」になることは、案外容易い。
しかし、「いい女」の空気を少女でいながらにして纏うには、
少女本人の意志と大変な努力がいる。
無邪気なままでは、決してなれない。
「精神的処女」は、無邪気で一途で、よそ見をしない。
そんな「少女」が主人公の物語。
私が、宮崎アニメに感情移入できない理由は、
そこらへんにあるのだと思う。


いい女が出て来ない作品というだけで、
嗜好が偏った私は、興味が半減する。
宮崎アニメは、私にとって肝心な「色気」に欠ける。
宮崎駿自体、色気なんて出す気はないだろうから当然だが。
例外の二作は、どこか色気を感じるから好きなのだろう。
主人公が「少女」でなければならない説得力がある。
私にとっての「いい女」とは、
大人であることを存分に味わえる度胸を持った女だ。
大人となることを、自覚して行動する少女だ。


宮崎駿は男性だからなのか、少女に夢を持てて羨ましいと思う。
宮崎アニメの少女は、まるで草花のように、すくすくと、
真っ直ぐ太陽目指して、美しい雨粒だけを吸って息をしているかのようだ。

私にとって、少女とは、もっと、生まれもって女だ。
まなざしは真っ直ぐでも、体は基本的に軟体で、しっとりと潤っている。
精神は、外気に敏感で、刺激によって、くぼんだり膨らみを帯びたり、
うねりを伴ったりする。
少女の精神には、生まれながらに女という機能が具わっている。
一例として、女というものは幼女であっても、友達との関係性や、
他者との力関係を、誰から教わるでもなく、肌で知っていたりする。
少年とは、まるで違う。
私から見ると、少年の方が草花に近い。

そういう少女という存在が先天的に持っている生々しい女らしさに、
宮崎駿は常に虚勢手術を施す。
メルヘンチックな手法で、女性器を縫い閉じてしまって作品を仕上げる。
それが、宮崎作品の魅力なのだと思う。
宮崎アニメの中には、幻想の子供、理想の少女が生きている。


ここまで宮崎駿を連呼しておいて何だが、
実は、この記事は、宮崎駿のことを書きたいのではない。
例の「世界で一番聞く価値のある言葉は?」の、あの映画についてである。
映画評など、文才のない私には到底無理だ。
例の映画で与えられた衝撃は、昨日の今日では、ちょっと言葉にできない。
けれど、そのうち感想位は書いてみたいな、と思っている。

私に、文才がないばかりに、まずは宮崎駿などを持ち出している。
宮崎駿について語りたいのではなく、
あくまで私が、「精神的処女性」がくだらない、
と思っているのだと理解していただけると有難い。
有難いというか、平身低頭、お願い致します。


次は、私の体験を持ち出して、文才の欠落を更にカバーしてみよう。

海外を旅行したときのことだ。
いわゆるバックパッカーで、あるヨーロッパの町に泊まった。
気が優しいゲイ男性が一人で管理している可愛いコンドミニアムだ。
5階建てのアパートの2階部分だけが、観光客の宿泊用になっていた。
出入り口で、アパートの住人の少年に出くわした。
彼は、6,7歳に見えた。
当時、私は二十歳くらいだったと思う。
少年は、女性である私を見るなり、さっと身を引いて道を開け、
ドアを押さえて手を差し出し、「どうぞ」と彼の国の言葉で言った。
彼は、少年だったが、既に立派な大人の端くれだった。
私は、思わず日本の6,7歳の子供と比べてしまった。
率直に言えば、日本の子供は彼に比べて遥かに幼稚だと思ったのだ。

育てる親の意識も、多分全然違っているのだろうし、
日本の子供のあり方と、海外の子供のあり方、
自立心の養われ方などが、まるで違うのだと思った。
日本では、子供が子供らしくあることが良しとされる傾向にある。
大人と子供の区別がつかない子供が多い。
実際、子供だか大人だか分からない大人もいるけれど。

その国では、子供と同様に、老人の姿も、日本とはまるで違った。
明るい色の衣服を身に付け、ユーモアセンスがあり、
いつでも恋する準備が出来ているような老人が、多く目に付いた。
大人になって、失ったものを数えるのではなく、
「大人」でいることの愉しみや幸福を、
現在進行形で味わい続けている人たちと、多く出会った。



長々と、前置きを書いた。
「精神的処女性」に価値、関心を見出せない私は、
大人であることの豊かさと味わい深さの真髄を、
先日出会った映画から、再び、痛烈に感じたのだ。


前回の記事で書いた、映画に登場するセリフ。
「世界で一番聞く価値のある言葉」の正解は、


「Pussy」



映画「セント・オブ・ウーマン」の中で、
アル・パチーノ演じる、失明した老人が言ったセリフである。
耳を疑うが、本当にこれが、
ストーリー展開においても重要なセリフの一つだ。


上記に限らず、
この映画のセリフは、全て名言、と言っても過言ではない。
これ以上に素晴らしいセリフ、胸を打たれたシーンは数え切れない。
多分、MTは、その中から、間違いなく私が飛びつくシーンを
見事ピックアップして、私に話した。
今となっては、この映画と出会わせてくれたMTに感謝している。


冒頭から最後の最後まで、
人間の喜怒哀楽全てが詰まった映画だった。
こんな作品が作れるものなのか、と、ただただ驚嘆。
既に見た方も、たくさんいらっしゃると思う。
何年も前の映画みたいだから。
素晴らしい映画だった。

以下は、見たことがある方にしか分からないかもしれない。
ちょっとだけ、ネタばれ注意。



自殺シーンが、リアルだ。
作り物である映画に対して言うセリフじゃないかもしれないが、
あれは、作り物じゃない真実のシーンだ。
自殺を止める、命を救うには、等価の命を要する厳しさ、現実がある。
そして、今日生きられれば、今はそれでいいのだ。
銃を置くことを、
「放棄するのではない。ただ、ここに置くだけだ」
という言葉が、それを象徴している。
下手な映画だと「二度と死ぬなんて言わない」
などと、安いセリフを吐くシーンだろう。
明日のことなど見える位なら、人生、苦しみもなければ味もない。


子供であるということは、損だ。
人生を味わうための舌が、未発達なのだ。
大人になることは、大切な何かを失う、なんて言葉は嘘っぱちだ。
子供でい続けるということは、
人生の味わいを取りこぼしていくことなのだ。
大人になること、一人の人間としての人生、
その苦味も甘みも味わい酔えることは、何て豊かで贅沢なことだろう。
ジャックダニエルを、「付き合いが長いから」と<ジョンダニエル>と呼ぶ老人。
時間をかけてじっくり熟成させた人生の芳醇な味を、
味わえる舌を持つ人に、私は熱烈に憧れる。
囲炉裏端で背を丸めて、もっともな人生訓、昔話を語る老人もいいだろう。
けれど、私自身は、年を取ることを楽しみ、
楽しみ続けて、悩み続けて、若者と対等に生き続けていたい。
アル・パチーノ演じる老人が、咆哮のように若者に投げつけた言葉。
「Grow up!!」
腹の底まで響いた。



ジョンダニエルを味わい、ダンスも女性のエスコートも完璧、
しかし盲目の老人の足もまた、
ときにもつれ、倒れこみ、往来でひっくり返る。
「足が、もつれても踊り続ければいい」
タンゴの調べが、あんなに美しいとは思わなかった。
人生、誰もが足はもつれるもの、
それすら味わい楽しむことが、生きるということなのか。
それとも、もつれる足が、既に人生の味わいそのものなのか。


人生の泥沼に足を取られ続け、視覚を失った老人にとっての
「世界で一番聞く価値のある言葉」は、「Pussy」。

「セント・オブ・ウーマン」は、
人間くさい生き方とユーモアが大好きな、私の心を鷲掴みにした。



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檻の中で生き延びる | comment(6) |


2008/01/17 (Thu) 成分分析

昨日、更新した二つの記事を客観視すれば、
私は、相当怒っていたようだ。

今朝になると、軽い鬱状態。
よくある。
何かを主張することに慣れていない。
誰かに直接怒ったことが、つい最近までなかった。
怒りがこみあげてくると、悲しくて泣いてばかりだった。
いつも自分が悪いと思っていて、
主張して、誰かに、お前だっておかしいじゃないか、
お前にそんなこと言う権利があるのか、
と言われることを恐れ、怒りを決して表に出さなかった。

だから、昨日記事をアップしてから、不安になった。
でも、怒りはやっぱり怒りだと、今の私は感じられた。
励ましや同意のコメントを予想外に頂いたお陰で、
何度も消去しようかと思った記事は、残した。
怒っている私は、皮肉屋でみっともないかもしれない。
怖くて読み返せないが、消さないことにした。


だけど、今、軽く鬱。
なぜなら、件のコメントをもらってから二晩寝て、
目が覚めてようやく、
鍵コメさんへの怒りの成分分析が出来るようになったのだ。


鍵コメさんへの怒り 60%
  内訳  二度に渡り押し付けられた
       あなたの言葉は良くない醜いと言外に言われた
       事前に事情を話した努力が報われなかった

宗教団体への怒り(私の実体験) 40%
  内訳  宗教団体で9割がたが鍵コメさんのような人だった
       人間不信を決定付ける体験を幾つもした


以上が、成分分析の結果。
眺めてみると、鬱になる。
要は、鍵コメさんは、実際の約4割増し、
私の怒りに晒されたことになる。
気の毒だ。
誰って、鍵コメさんもだし、
怒って怒って不毛に苛立っている私という女も。


私が、鍵コメさんが熱烈に現在信仰している宗教団体に属し、
苦渋の経験をしたことで、私は狭量になっている。
体質的に受け付けなくなった。
以前なら、同じ宗教をしている人と結婚するのが夢だった。
今は、そこに属しているというだけで、顔も見るのが嫌になっている。
こんな私と、いまだに親交を絶やさず、私という人間をまっすぐ見てくれている、
現信者の友人たちには、心から感謝する。
彼女たち、寛大で優しい人たちが存在することも知っているから、
私は何とか、バランスをとれている。

一人の友達は、自身熱心に信仰しているにも関わらず、
私の団体内での体験を、否定せず、すべて信じて聞いてくれた。
今まで、多くの人が頷き相槌を打って聞いてくれたが、
その直後に「それでも、続けなさい」と言ったものだ。
これ以上の素晴らしい宗教はないし、
やめたら罰が当たる、不幸になるというのが、
彼ら共通の理屈だった。
私が躊躇うのも、まさに同じ理由だった。

しかし、彼女は違った。
全部話を聞いてくれたうえで、きっぱり言った。
「分かった。もう、やめ。やめたほうがいいわ。
美鳥のためになってないどころか、これやってたら、
美鳥は駄目になる。
明日にでも私が言っておくから、もう明日にでもやめ。
この信心せな絶対幸せになられへんとか、そんなんないから。
罰なんて、あるわけないやん。
罰なんか、絶対当たらへんし、
信心せんくても、美鳥は絶対幸せになれるで」
言い切ってくれた。


彼女は、熱心な信者でいて、祈りの100倍行動していた。
そして、一本ではない、行く筋もの幸福への道が見えている。
私と同じような怒りをもった信者ではなく、
信者である彼女が言ってくれた言葉は、一番私の胸に響いた。
やめよう、と思い切ることができた。
籍は、抜いていない。
なぜなら、何かの拍子にそんなことが知れれば、父から殺される。
比喩でないことは、
以前から記事を読んでくださっている人には分かってもらえると思う。
父は、信仰があれば家族すらいらない、と明言した人間だ。
何をされるか、分からない。
本当は、すべて清算して手続きをしたいのだが。
上記の理由で、紙切れ一枚のこと、と考えるようにしている。



明日は、久しぶりにJちゃんと会う。
土曜日は・・・・行けるか分からないけど、
英会話クラスの新年会。
美容院にも行かなくちゃ。
体脂肪計も買いに行きたい。
理想の女性、ミラ・ジョボヴィッチか、
某海外ドラマのアマンダの写真でも部屋に飾って、
爪の先程度でも近づけるように、美容とダイエットを心がけたい。
怒るのは、もうやめよう。怒って心を滞らせるのは、やめよう。
少しでも、なりたい自分に近づけるように、エネルギーを使いたい。

街に出ると、知らない人と必ず話せるから面白い。
今日は、一日笑顔でいよう。
美味しいたべもの、美味しいスイーツ、美味しいのみもの。
たくさん買って、かわいいものをたくさん見てこよう。
この間見た、髪留めがほしい。
見てるだけで幸せになった。
まだ売ってたらいいな。



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檻の中で生き延びる | comment(8) |


2008/01/16 (Wed) 怒ってます

今回は、怒ってます。
先ほど、記事を更新したとおりですが。
論理的で冷静な女を装ったところで、怒りは隠せません。
こういうものを書くと前回の記事は、
ある意味無駄になるのですが、
あちらは、フォーマル。こちらは、カジュアルです。
詭弁ですね。
どちらも、私です。
強いて言うならば、あちらは心の病気について、
こちらは、信仰と対人関係についてでしょうか。


ブログ開設してから初めて、大変、怒ってます。
最初にお断りしておきます。
こちらは、ビシッと言います。
毒舌です。
怒ってますから。
ただし、そのままだとドン引きだと友人に言われたので、
毒舌4割くらいに留めて、書きたいと思います。


心の病気について書いていると、
いつかは宗教勧誘等のコメントが来るだろうと覚悟していました。
実際体験すると、予想外に腹が立ちました。
実感しましたが、これは宗教どうこうの問題ではないですね。


通りがかりの方でも、ひとつ記事を気に入っていただけたら、
そこにコメントくださるのは、すごく嬉しいです。
何気ない言葉でも、嬉しいです。
また、次もお会いできたらいいな、と思うくらいです。

これは、散歩していて、笑顔で声をかけられるような嬉しさです。
それから、お互いちょっとさりげない話をして、
じゃあまたね、元気でね、と別れる。
些細な出会いだけれど、元気が湧いてきます。


問題の鍵コメさんが、私のところへ最初にご訪問くださったとき、
コメントで記事内容に触れようともせず、
いきなりご自身の信仰されている著書を私に勧め、去りました。
私は、唖然としました。

二度目にコメントいただいたのが、昨夜です。
いきなり私のブログの方針に駄目出しです。
低姿勢で控えめな、完全駄目出しです。
ご本人は、そんな意識は毛頭ないと思います。
多分、迷える哀れな人魚姫の私を、
ご自身が思われる正しい道へ、
導いてくださろうとしたのでしょう。
いいのです。今日は「人魚姫」で。
日本酒飲みながら、書きたいくらいです。
誰かさんじゃないですけど、
ちゃぶ台があればひっくり返してますよ。


ブログで自身を書いている以上、読んでくださる人に、
ある意味私のプライバシーを開示しているわけです。
これは、私のみならず、他のブロガーさんたちも同様です。
皆さん、匿名性と表現の自由度の間で、
ときに慎重に記事を書かれていると思います。
メンタルヘルスをテーマに掲げてらっしゃるブロガーさんは、
なおのことです。
家族にさえご自身の病気を黙っているけれど、
ブログでだけは書きたい、という方もいらっしゃいます。

以上のような状況を踏まえて、
最初のコメントで信仰の話をする人の姿を、
分かりやすく現実にたとえてみましょう。


これは、仕事などで初めて出会い、挨拶し、
互いに名刺交換するなり、
いきなり無言で相手に抱きつくようなものです。
現実のそこらの街角で、見も知らない人にいきなり
「あなたの幸せを祈らせてください」といわれるより、
生々しい感覚を伴います。
ぎょっとします。
怯えます。
そんな出会い方をして、
果たして二度と会いたいと思うでしょうか。

思いませんね。
私なら、近づかないでおこう、と思いますし、
その方が次回何か言われても、
話4分の1程度しか信じないようにします。
それが、まともな人の感覚じゃないかと思います。


件の鍵コメさんは、
言葉遣いは控えめで低姿勢で善良ですが、
何と無神経だろうか、と驚きました。
善良や正義の影には、
常に無神経、鈍感、惰性などが付き纏います。
そのことに、全く頓着されず、
ただただ人を救う情熱に駆られた言葉は、
ツルツルスベスベ、取り付く島がありません。


昨夜の鍵コメさん。
これは、社会でも通用しません。
やめてほしいです。
あなたと、鍵つきという密室でコメントを交わすのが、
私には苦痛になりました。
あなたが、なぜ今回のコメントも鍵つきにされたか、
理由は分かりませんが。
一回目は信仰の話、
二回目は私のブログ方針そのものへの駄目出し。
方針が合わない、相性が合わないのであれば、
二度と来なければいいんです。
それを、会ったこともない、よく知らない人に、
あれこれと指示して、自分の望む方向へ導こうなんて、
他者に対して、あまりにも傲慢過ぎます。
というか、虫が良すぎるんじゃないかと思うんですが、
いかがでしょうか。


例えばご自身の一番身近な恋人か友人に、
私に言ったような同じ言葉で諭して、
果たして翌日から言うとおりに動いてくれるか?ということです。
悩んでいる人があなたの身近にいて、
あなたが仰ったような言葉で、
1ミリでも心動かすことができるのか、ということです。

あなたは、今かくかくしかじかのような醜い言葉を綴り、
それはあなたには合わない。
あなたは、僕が思うように、かくかくしかじか生きるべきであるから、
これからは無理やりでもいいから美しい言葉で詩を書いてください!
などと言われて、
恋人、友人、他人が言うことをききますか?
心に届きません。
なぜなら、動機が弱いからです。
あなたが信仰されている団体の「折伏」という概念、やり方には、
会員を増やそうとするあまり、
この人間らしい「動機」を欠く傾向が強いのです。
欠いているにも関わらず、
そこを「使命」だとか「慈悲」だとか「眷属」だとか「功徳」だとかで
埋め合わせて、ポテンシャルを保とうとする。
しかし、弱い動機は、言葉の力そのものです。
心に届かない言葉は、ただの演説になってしまいます。
それは、言葉の無駄遣いです。
あなたが、とうとうと信仰の話をされる間に、
ひとこと笑顔で「こんにちは」と言えば、
演説するより100倍、人の心を惹くでしょう。


わたしは、元、某巨大宗教団体に3歳から所属していた者です。
脱却した今、何を信じてらっしゃる方でも尊重いたします。
ただし、わたしに押し付けないでください。
何が押し付けにあたるのかは、ご判断にお任せします。
普通の社会でのルールと同じです。

現実であれ、顔が見えないネットであれ、
親密度というものは、確実に存在します。
親密度0で、パーソナリティにあれこれ口を出されても、
私は、一切聞く気はありません。
誰だって、そうじゃないですか。

でも、鍵コメさんは、
ご自分がとても正しいことを言っていて、
誰にとっても幸福な考え方だから、
多少強引でも言わずにはおれない、
そんな烈々たる正義感に駆られた方とお見受けします。

私自身がそうだったから、分かるんです。
組織内で、そういう訓練も受けます。
訓練といっても、軍事訓練のような堅苦しいものでは、ありません。
折伏(勧誘)の仕方、友達に信仰を話すときの話し方、
ひとつひとつ、会合や何かでその都度先輩に教えられ、
訓練を受けるんです。
悩みの聞き方、聞いてきた悩みを教義ではどう見るか、
そして、どんな姿勢で対するか。


私が所属していた信仰の中身をご存知ない方には、
全くわけが分からないと思います。
すみません。


これ以上は、
時機を見てアップしようと思っている記事に書いています。
ただの感情論で語りたくない話ですので、やめておきます。


これを、もし読んでいるなら、鍵コメさん。
言っておきます。
あなたは、今こう思っているでしょう。

「こいつは退転者だ。
正法が分からなくなってしまっている。
恐ろしい。 なんて哀れな人だろう・・・・。
正法を非難している。魔だ。仏罰だ。
正法に触れた者は、
正しいからこそ拒否反応を示すと御書にも書いてあるが、
そのとおりではないか。
美鳥の怒りは、いわば正法が正しい証拠だ。
美鳥は、なんて業が深く、罪深く、
ひどい宿命を持っているのだろう。
そうか だから虐待なんかにあうのだな。
だから心を病むのだな 」

こんなところでしょうか。
教学を踏まえて説明してもいいですが、
それは前回やりましたものね。
覚えてくださっていたら、ですが。
忘れたから、また書いてきたのでしょうね。
一度目に、私が理性を総動員して、あなたの慈悲に感謝し、
コメントをあなたに送ったはずです。
それを、あなたは忘れて、また同じことをしています。
鍵コメさん。
あなたが信仰してらっしゃる宗教が何を言おうとも、
社会で通用しないことを、してはいけません。
あなたが先生と仰ぐ方も、そう仰ってるじゃないですか。
やめてほしいです。


正しい法だとか、慈悲だとか、宿命だとか大きなことを言う前に、
人として、人と関わって生きていきたいです。
すべては、人から始まり、人に終わります。
あなたの先生だって、大聖人だって、キリストだって誰だって、
宗教や哲学は、人を愛し、人の中で苦悩し、
何とか人を救えないだろうか、と命を賭した人たちの
偉大な思想、究極の道具です。
使う人間によって、どうにでもなるのが宗教です。
世界中の人が宗教で争うのは、
人間がそれぞれの欲に合わせて
宗教を利用し、宗教に利用されているからです。
私は、そう結論づけた人間です。
約30年かけて。

鍵コメさん、申し訳ありませんが、
もし読んでらっしゃるなら、この記事と前回の記事が、
あなたのコメントへの返信です。
気が強い女だと驚かれたかもしれませんが、
私の記事をご覧になっていれば、お分かりだったことでしょう。
傷つかれたのなら、おあいこということでお願いします。
あなたがご自身の信仰を非難されれば苦しいように、
私も自身が思いいれを持って続けている
ブログの根底を否定されれば、苦しいのです。
今回のようなコメントを頂き、ただただ残念です。
最初にお返しした私のコメントを再度読んでくだされば、
それが嘘ではないと、お分かりになると思います。



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プロフィール

美鳥(みとり)

Author:美鳥(みとり)
被虐待サバイバー。解離性同一性障害、うつ病、対人恐怖症ほか色々闘病中。境界性パーソナリティ障害寛解しました。毎日の光と影を綴ります。生育歴・来歴・病歴・活動はこちらをご覧下さい⇒<はじめに Profile>

講演活動・ユーストリーム放送しています。
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診断名の有無に関わらず、生き辛さを抱える方々と温かい繋がりを目指しています。ご感想ご意見など、お気軽にどうぞ。お待ちしています。

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